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太平洋戦争における日本の軌跡6 ~沖縄戦~

↑AIに描かせたイメージ図。大きさの比が明らかにおかしい。

自己研鑽の一環として『失敗の本質』を要約し、太平洋戦争(第二次世界大戦)においてターニングポイントとなった事象を記す。6回目は沖縄戦である。

なお、『失敗の本質』では沖縄戦のあとは失敗の分析に注力した章となっているが、このブログでは気が向いたらその章も整理したいと思う。一旦シリーズとしてはひとまずの区切りとしたい。

5回目のレイテ沖海戦は以下参照。

s-tkmt.hatenablog.com

沖縄戦

概要

太平洋戦争において、日本の本土・国土においての戦いとなったのは、硫黄島とそしてこの沖縄である。沖縄戦終戦間際の1945年4月~6月に渡って行われ、圧倒的な物量を誇り、制空権、制海権を制圧した米軍に対して少なからずダメージを与えたことで、米国に対して日本本土への侵攻を遅らせることができた。

しかし、このような現場の勇敢ある戦いとは裏腹に、大本営を始めとする上級司令部との現場との間では作戦用兵思想の大きな乖離があり、作戦遂行上の齟齬が生じる問題を引き起こした。というのも、沖縄作戦における目的が、本土決戦準備のための時間稼ぎなのか、航空決戦に寄与する攻勢作戦にあるのか、曖昧な状態であったためである。

沖縄戦と言えばひめゆり学徒隊チビチリガマでの集団自決などのセンセーショナルで有名なエピソードも多いが、ここではあくまで『失敗の本質』に準じた内容をまとめる。

沖縄作戦の準備段階

第三十二軍の創設

日本は本土防衛のための絶対的な防衛ラインとして「絶対国防圏」を制定した。具体的には千島列島やマリアナ諸島などで、ここを突破されると日本としていよいよ本土に攻め込まれてしまうという、超絶重要ポイントであった。
これを制定し、南西諸島の防衛を改めて強化していくこととなり、その地域を担当とする第三十二軍を創設した。この第三十二軍は沖縄戦においてキーとなる部隊である。

この頃、大本営における対米作戦構想の基本は航空決戦至上主義であったた。太平洋戦争開始当時は、日露戦争からの成功体験に基づく艦隊決戦思想が相変わらず残っていたが、この頃には航空戦力の重要性が増し、主軸となっていくのであった。そのため、第三十二軍は航空部隊の基地構築や基地の守衛がメインで、ゴリゴリ地上戦を戦うための組織ではなかった。

そんな中で、絶対国防圏の1つであったサイパン島が陥落し、じわじわと米国の手が迫っていくにつれて跡がなくなってきた大本営は「捷号作戦計画」を策定し、一か八かの勝負に出ていくことを覚悟した。この捷号作戦における捷一号作戦がいわゆるレイテ沖海戦となる。

南西諸島は捷二号作戦の決戦場と予定され、第三十二軍がメイン担当として、多くの兵力が充当された。第三十二軍は高い戦意に燃えて決戦準備に向けていくのであった。

台北会議

しかし、レイテ沖海戦が始まり捷一号作戦が発動されるやいなや、大本営沖縄本島にいる精鋭部隊である第9師団を台湾に転用すると決定するのであった。これを受けて士気を高めていた第三十二軍は一気にやる気ダウン。第9師団というのはそれだけ沖縄にて信頼されている部隊だったのである。

こうなると第三十二軍としても新たに作戦構想を練り直す必要が出てきた。しかし、大本営からは特にこれと行った特別の命令や指示は出なかったので、第三十二軍にて現在の兵力を元に自主的に作戦計画を練っていくこととした。

それまでは捷号作戦を前提として個別の作戦や方針を練っていたが、レイテ沖海戦により捷号作戦が発動されたのと、第9師団が台北に行ってしまったことでこれを前提とした作戦は組めなくなってしまった。(捷号作戦は陸海空を総動員して一気に叩くことを前提とした作戦である。)

そのため、第三十二軍としては「海軍と共同し南西諸島を防衛する」という基本方針のみが生きていると解釈することとした。なお、この解釈が妥当であるかどうかは大本営側と調整せず、独断であったと言われている。

こうして第三十二軍は、米軍の沖縄本島への上陸を阻止し持久戦に持ち込む、という作戦方針を立てていくのであった。

他方で、この頃の大本営の想定としては、米国が本土に攻めてくるとしても、一旦クッションとして沖縄を攻めていくであろうと考えていた。そのため、航空兵力を駆使してこのタイミングで敵に大ダメージを与えていこうと考えていた。

これにあたって沖縄に航空勢力を整える必要があるわけだが、他方で現場の第三十二軍としてはもはやそんな体力は無いと考えており、地上戦で持久戦を方針を変更しようとしなかった。

作戦の実施

沖縄作戦初動の航空作戦

1945年3月から沖縄ではちょくちょく米軍からの攻撃を受けるようになってきた。最初はちょっかいを出している程度にしか認識していなかったが、3月26日、米軍はとうとう上陸を開始。これを受けて日本は沖縄侵攻とみなして「天一号作戦」を発令した。これは米機動部隊を上陸以前の段階において撃滅しようとするものである。

しかし、日本の航空戦力はもう困窮しており、米侵攻部隊を上陸前に撃沈しきれるほどの機体を集められなかった。そのため、五月雨式な攻撃した与えられず、米軍の侵攻を止めることができなかった。このことが、沖縄戦における敗戦に至る第一歩となってしまった。

こうして初動のチャンスを逃したまま、第三十二軍は4月1日の米軍上陸を迎えることとなった。

米軍上陸

1945年4月1日、米軍が本格上陸を開始。米国軍は沖縄本島に西方海面へと到着した。しかし、首里台上にてその様子を見ていた日本軍首脳部は楽勝モード。すでにこちらも準備万端という認識で、このあと南下していくのを待ち構えているという状況である。

沖縄戦の前提として、米国軍は沖縄県の中心部にある中飛行場と北部にある北飛行場を抑え制空権を取ったあと南下して沖縄全土を制圧する、という作戦であった。日本軍首脳部は沖縄のやや南にある首里城を本拠地としてそこから各司令を出していた。

米軍は慣れない土地への上陸となるので、手探りのような状態で、とりあえず物量勝負で莫大な砲弾や爆弾を闇雲に浪費するしかなかった。さて、楽勝モードの日本軍首脳部としては、このまま優秀な日本空軍がやってきて、上陸してきた米軍を蹴散らすであろう…と思っていたのだが来ない。先の通り、日本の航空戦力は困窮状態で、上陸する米軍を返り討ちに合わせられるだけの戦力はもう無いのであった。

つまり、ここにおいて、最高統帥部にて想定していた航空戦至上主義と、現場としての地上戦重視主義における乖離が生じたのである。上層部ではあるべき姿を考えていたが、現場はそう言ってられないという状況だったのである。

米国軍としてはもっと日本軍からの抵抗を受けるかと思いきや拍子抜けであった。そのため何らかの罠かとも思ったが、どうやらそうでないことが分かったため、どんどん進軍し、中飛行場と北飛行場を抑えてしまった。

予想以上のスピードで米軍が進攻し、北・中飛行場を抑えられてしまったのは日本軍にとって相当な衝撃であった。慌てた大本営は現場に対して、北・中飛行場の確保を指示したものの、作戦部長宮崎によってこの電報は抑えられてしまった。というのも、ガダルカナル作戦において大本営が現場の状況を鑑みない指示を出して大失敗したことを踏まえて、あくまで現場の作戦実施は現場判断にするべきという信念に基づくものであった。

こうして航空戦のために北・中飛行場を一刻も早く取り返したい大本営と、持久戦でやっていくしかねぇと考えていた第三十二軍のそれぞれの方針の対立が米軍の上陸により顕在化していくのであった。

第三十二軍司令部の内部論争

とはいえ第三十二軍もい一枚岩というわけではなかった。北・中飛行場奪回の要望が上級司令部からバンバン来るので作戦を変更したほうがいいのでは?という空気感も現場では流れ始めていった。「当初と状況が変わって北・中飛行場が取られてしまったので、大本営の言う通りこれらの奪還に向けて作戦変更をしよう」、という積極派と、「いやいや、北・中飛行場は単に取られただけではなくすでに整備もされており、今から取り返すのは厳しい、なので今まで通り持久戦していこう」という保守派で激しく対立していくようになった。

結果的には、北・中飛行場に対して攻勢をとる方針で結論が定まり、いざ攻撃を開始しようとしたところ、「南方海域に船団が現れた」という情報が参りこんだことで中止。その後、4月8日に改めて作戦実行しようと発令したものの、またもや別の船団が現れたということでそっちの対応をするために中止。

結果的に北・中飛行場を奪回するどころかやってくる米軍の対応で手一杯となり、第三十二軍は結局持久戦へと突入していくのであった。

失敗の本質

もちろん沖縄戦はこれで終わりではなくこのあとも続くのであるが、『失敗の本質』で記述されているのはここまでとなる。

第三十二軍は創設してから大本営との関係がギクシャクし続けていた。精鋭部隊である第9師団が取られる中で、大本営は相変わらず航空決戦至上主義を貫く一方、現場はそんなんできねーよという状況。そしてそれが北・中飛行場の奪取においても大本営の思いと現場の思いがすれ違い、結果まごついている間にどんどん米軍に進行されていく事となった。

大本営としては米軍が上陸した際に第三十二軍がこれを防いでくれるものと期待していたがそうはならなかった。現実的な状況として、元々北・中飛行場に配備されていた連帯は壊滅的な打撃を受けていたので、物量で圧倒する米軍に対して攻勢を仕掛けるのは不可能であったし、上陸してきた米軍はすぐに南北に分かれてさっさと進軍したことで、日本軍が海上での反撃準備が整えられる前に無傷で上陸を果たしてしまう。

また、仮に第三十二軍が北・中飛行場の奪取に即座に動けていたとしても、攻勢体制が整った米軍相手では大損害を被る結果となっていただろう。そのため、当然北・中飛行場の奪取はできず、本土防衛のための時間的余裕も失うこととなったであろう。

今回において大本営は想定以上のスピードで北・中飛行場が取られてしまったということだが、これらも第三十二軍や北・中飛行場がどの程度の抵抗力かという現場の状況を把握していれば、予見ができたものである。戦略的なデザインを描き、沖縄作戦の戦略的地位・役割を明確に示せなかったことに第一の発生原因がある。

また、第二の原因として、第三十二軍においては戦略的なデザインに基づいた行動ができなかったことがある。その軍内独自で作戦目的・作戦方針を独立的に決定してしまうのは、国軍全体の戦略デザインから外れてしまう結果とならざるをえない。これにより、航空戦をベースとした大本営の方針と持久戦をベースとした第三十二軍とは溝が深まるばかりであったのである。

個人的な所感

沖縄戦においては全体目的が曖昧なまま持久戦になってしまったことで、もはやなんのための持久戦なのかがわからなくなり、ただひたすらじわじわ負けていくだけの戦いとなった。『失敗の本質』においては、その持久戦になってしまうまでを扱っている。つまり、持久戦に突入した時点でもう勝ち目は無いのである。

さて、この持久戦に突入してしまった原因としては、上層部での方針と現場での方針のすれ違いというところが焦点に挙げられる。これは他の作戦でも同様のことが言えるが、上層部にて現場の状況を把握せず机上評価だけで理想論を進めていくことで、実態にそぐわない作戦となってしまった例である。特に沖縄戦になっていくと戦力も消耗しきっているため、それまではそういったすれ違いがあっても現場力でなんとかなったかもしれないが、満身創痍の状態ではそういったことも期待ができない。

この頃における上層部の状況としては、「もう日本は絶対国防圏を取られた時点で負け確なのだから降参しよう」とする派と、「少しでもなんらかの痛みを与えて、負けても有利な条件を引き出そう」とする派と、「このままでは死んだ人たちが報われないから何がなんでも最後まで戦い続ける」とする派などでまとまりが取れていなかった。そのため、沖縄戦においても、上層部で結論が出せないままずるずると持久戦をして時間稼ぎをしていくしかない状況となっていたのである。

今からすれば「さっさと降参すればよかったのに」とも考えられるが、当時は勝った国は負けた国に対して、多額の賠償金や超不平等な貿易条件など徹底的に懲らしめるのが通例である。そのような状況下で下手に降参を言い出すと「そっちが負けを認めたのだから、こんだけ懲らしめますね」が立場として成立してしまうのである。そのため、一概に上層部がアホだった、と結論づけるのは尚早であり、上層部は上層部でこのような状況下での利害関係を調整していく必要があったのである。