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【2020年】9月6日:奴隷と黒人差別の歴史2 ~古代における奴隷の扱い~

続いて古代に突入する。ここもガッツリ書こうとするととんでもない量になりそうだが、まともに文献をあさって色々書こうとするとそれだけで1冊の本になってしまうので、自分の狭い知識範囲を大きく逸脱しないレベルで整理していこうと思う。

なお、世界史においては多種多様な解釈が存在しており、あくまで以下に記載する内容は一側面から見た素人の戯言に過ぎないのでそのあたりはご了承。

ちなみに前回の記事は以下である。

s-tkmt.hatenablog.com

古代における奴隷の扱い

歴史の始まり

現代社会において、イラクとかシリアとかイランとか言われるとなんだか戦争ばっかやっていて治安が超悪いイメージしかなく、先端技術や各設備なんかも我々のような先進国に比べて未発達のように思ってしまいがちだが、世界史においてのスタート地点はこのエリアになり、文明という意味では世界最古と言ってもいいだろう。このあたりは肥沃な三日月地帯と呼ばれ、農耕開始による経済や社会がいち早く築かれたエリアであり、なんなら紀元前1500年くらいには鉄器も使用している。(※日本にて鉄器が使用されたのは紀元後) このあたりの詳細な歴史については省略するが、農耕牧畜にあたっての作物や家畜の管理にあたって文字・数字が発達していき、そこで楔形文字やら象形文字が生まれ、文明が築かれていった。

歴史という概念が成立しているのは文字があるからこそである。これより昔からも文明というのは存在していたであろうが、文字が無いためにそこでの暮らしぶりや文化・経済・社会というのが記述されない、すなわち歴史として刻むことができない。言われてみれば当たり前なのだが、大事なことである。

メソポタミア文明(シュメール文明)における奴隷制

ここがまさに今で言うイラクやシリアといった中東の地域における古代文明である。中学校の歴史で習うチグリス・ユーフラテス川といったところがキーワードになる部分である。肥沃な三日月地帯において農業が発展し、そこから文明が発達した。肥沃な三日月地帯というのはざっくり以下の赤色周辺である。(Wikipediaより引用)

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ここであえて語弊を招く表現を使うが、ポイントなのは「肥沃な三日月地帯」といっておきながら、このエリアは別に大して肥沃ではないことである。降雨量が多く、それなりに気温も高く、木々が生い茂って田んぼや畑が広がり…というのはあくまで日本の話しであって、このあたりは御存知の通りそれなりに砂漠な地帯である。(砂漠地帯の中で肥沃な方という意味では、間違った表現ではないのだろうけど…。)では、なぜこのエリアが文明の発達に寄与しているのかというと、灌漑技術が発達したからである。つまり、肥沃な三日月地帯では何もしなくても勝手に緑豊かに植物が育っていくというわけではなく、灌漑で水資源を効率的に分配することにより農業が発展していくことになる。

チグリス・ユーフラテス川なり、ナイル川なりは、ある季節性をもって大雨が降りそれにより川が氾濫して泥を含んだ水が溢れて大地を潤す。そのような地域にて農業を行おうとすると、適度に水をためて保持して分散させる仕組み(=灌漑)が必要となる。現代においてダム工事が国家事業として成立するように、当時の灌漑設備の整備においても、大規模にヒト・モノ・カネが投下されることとなる。そのような状況下において、時の権力者がそれを取り仕切り、指揮命令系統が組織的に行われ社会が築かれる。その結果、役割の分化が進んでいき、必然的に末端の作業や雑用といったものは奴隷が担っていくということになる。こうして灌漑設備が整うことで安定的な農作物の供給が行えるようになり、人口の増加を支え、先述の社会構造の構築と共に文明が発展していくことになった。

ここで有名なのが「目には目を歯には歯を」のハンムラビ法典である。ハンムラビ法典自体は古代バビロニアにおけるハンムラビ王による法令だが、この古代バビロニアなる場所はまさに肥沃の三日月地帯に属する場所である。このハンムラビ法典にて以下のような記述がある。

第199条 もし彼がほかの人の奴隷の目を損なったか、骨を折ったならば、彼はその(奴隷の)値段の半額を払わなければならない。

つまり、奴隷制度が明文化されているのと、「目には目を歯には歯を」とは言うもののそれは対等な身分同士での話であって、相手が奴隷であればそうではないようである。またここから読み取れるように、「目には目を」というのは決して復讐的な意味合いを持つものではなく、罪に対してはそれ相応の報いを与えること、そしてそれは身分によって差があるので、必ずしも物理的に同じ「目には目を」とすることが平等ということではないということである。

古代エジプトにおける奴隷制

まず、エジプトはアフリカというより中東と理解した方が良い。地理的にもすぐ隣にイスラエルがあり、肥沃の三日月地帯を構成し、現代において宗教はイスラム教でその最高学府であるアズハル大学を構え、民族的にもアラブ人がメインである。

そんなエジプトにおける奴隷制度と言われると、まず思い浮かぶのはピラミッドの建設であろう。ドラクエ5の奴隷時代のように、鞭を持った偉そうな指揮官に「しぬほど はたらけ!」と言われて石を運ぶ姿が想像されるかもしれない。しかし、ピラミッド建設においてはいわゆる死ぬほど働かされる酷使としての奴隷ではなく、農作業における農閑期を埋め合わせするための公共事業であったといわれている。ピラミッド建設にあたっては、むしろお祭りのようだったとか、報酬が色々もらえるのでありがたがっていた、というような説もあるようだが、実際にそのときにいたわけではないから分からないし、これらについては少々誇張がすぎる気はする。

とは言うものの、あれだけの建造物を構築するにあたってはそれなりの人員投下が必要になるわけで、それらをすべて理不尽な強制労働だけで賄うというのも非現実的である。多くの民衆から反発を買わないよう、古代エジプト文明を発達させ、継続し、そしてピラミッドを築き上げるにあたっては、それに応じた報酬やメリットを与えるような政策をしていく必要がある。事実、報酬として賃金やビールや国から支給されていたたと言われており、貧困な人民に対して時には減税策を打ったりもしていた。これを我々がイメージするようなドラクエ5式の奴隷と捉えるのは正しくないかもしれない。

そして、その後のエジプトで奴隷というと旧約聖書における出エジプト記であろう。旧約聖書におけるここに至るまでの経緯は省略するが、紀元前1300~1200年頃、イスラエル人(ヘブライ人)はエジプトで奴隷として働かされていた。(すでにピラミッドは1000年前に完成済みの時代。そう思うとピラミッドはとてつもなく大昔に作られているのだなぁ…。) そんな中で、奴隷であるイスラエル人達がどんどんと人口を増やしていったため、いつか彼らが団結して反乱を起こされてしまうのではないかと恐れた当時のエジプト王がとてもナイスなアイディアを思いついた。

「これ以上イスラエル人の人口が増えないように、イスラエル人のこどもは殺してしまおう!」

こうしてイスラエル人の新生児の男子はナイル川に投げ捨てるよう命じた。とんでもない政策を思いつくものである…。そんな中、たまたま川に水浴びに来たエジプト王の娘に拾われて、一命をとりとめたイスラエル人こそがモーセである。そのままエジプト王の娘に育てられモーセ的には十分不自由ない暮らしをしていたわけだが、同朋でもあるイスラエル人たちはみな奴隷として働かされている状況に憤慨し、彼らを引き連れてエジプトから脱出し、約束の地カナンへと向かう。その道中で、追ってるエジプト軍から逃れるために海を割ることで干上がった地面の上を歩いたり、シナイ山という山にて神から10の教えを授かったりする。ちなみに、このとき授かった10の教えのことを十戒(モーセ十戒)といい、海を割って歩くこと自体はモーセ十戒ではない。このときモーセが引き連れたイスラエル人は数十万人とも言われている(さすがにそれは昔話における誇張であろう。)

 話がだいぶそれてしまったが、さきほどのピラミッドの例とは違い旧約聖書においてエジプトから脱出したいと思わせるレベルであったことを鑑みると、ピラミッド建設から1000年後におけるエジプトの奴隷政策は公共事業的な要素ではなく、王様による搾取的な要素が大きかったのだろう。

 

 本記事はいったんここまでとする。この後古代ローマについての奴隷制度について書きたいが、それだけで1記事分くらい書く予定である。ここまで書いてもまだ紀元前…。人類の歴史はまだまだ長い。