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太平洋戦争における日本の軌跡4 ~インパール作戦~

※↑これはあくまでAIに書かせた想像イラスト

自己研鑽の一環として『失敗の本質』を要約し、太平洋戦争(第二次世界大戦)においてターニングポイントとなった事象を記す。4回目はインパール作戦である。

 

3回目はガダルカナル作戦については以下参照。

s-tkmt.hatenablog.com

 

インパール作戦

概要

牟田口廉也という一人の男の暴走によって引き起こされたあまりに無謀な作戦で、多くの犠牲者を出し全くの戦果が得られなかった、日本軍における「史上最悪の作戦」と言われる作戦である。

太平洋戦争においては、先述のガダルカナル島の戦いであったり、硫黄島の戦いであったり、沖縄戦といった、各太平洋の島々について焦点が当たることが多いが、この作戦の部隊はビルマミャンマー)である。そもそも大日本帝國における大東亜共栄圏の構想としては、東南アジア方面も日本の領土として拡大していくことが前提となっている。そういった意味では大東亜戦争といったほうがこの記事は正しいかもしれない。

Wikipediaより大東亜共栄圏の最大領域。属国的な扱いなどはあるが、この赤く塗られたエリアは大日本帝国の領土と言える状況であった。今回のインパール作戦ビルマミャンマー)からインドにかけて行われた作戦であるため、そのエリアに関する話がメインとなる。

このインパール作戦は大規模な犠牲者(参加者10万人のうち、戦死者3万人、戦傷及び戦病者2万人、生き残った5万人についても半数以上は病人)を出したのだが、そもそもの作戦立案の時点で破綻していた。そのため、『失敗の本質』においてもインパール作戦の実施内容より、作戦の計画プロセスの失敗に対して焦点を当てている。ここでもその観点で整理したいと思う。

時期としては1944年3月~7月初旬である。

作戦構想

21号作戦:東インド進攻作戦

まず、このビルマエリアを抑えるそもそもの意図としては援蒋ルートの遮断である。イギリス・中国は連合国側となるので、イギリス領であるインド経由で中国へ救援物資が送ることで中国(当時のトップは国民党の蒋介石)を援助し、日本に対して有利に進めようとしていったのである。この物資を輸送するルートを援蒋ルートという。

当然日本としては中国に物資援助されては困るので、この援蒋ルートを絶ちたいと考えていた。その援蒋ルートの拠点の1つとなっていたのがインドのインパールという地域であり、ここを占拠することで援蒋ルートを絶ち、そしてビルマにおける日本の補給ポイントとして活用しようと考えていたのである。

しかし、これに対し、牟田口廉也はかなり無謀な計画と考え反対していた。というのも作戦を実行しようとしていた時期がちょうど雨季にあたり、大雨の中で機微な行動をするのは現実的に不可能であり、かといって乾季に実行するにもこのあたりの地形として険しい山々を超えなければならず、現状の日本軍の状況では無謀であったためである。

(参考:インパール周辺の地図。険しい山々に囲まれている)

結局この21号作戦は実行されることは無かったものの、明確に中止という扱いではなく、そのまま保留となっていた。つまり、一応作戦の1つとしては残された状態であった。

その後、日本が抑えていたビルマを連合軍が奪回しようと色々と攻撃を仕掛けられる。ウィンゲート旅団とよばれる挺進部隊によって大幅に日本はダメージを受け、ビルマを手放すことが目前に差し迫っていた。

牟田口廉也のインド進攻構想

当初の21号作戦、つまり東インドを進攻していくことに反対だった牟田口だったが、180度方向転換をする。連合軍からボコられている状況を目の当たりにして、もはや受動的な守りに入るのではなく、攻撃的になることで結果的に連合軍を蹴散らして守っていく必要があるということを考えたのである。

詳細は省略するが、牟田口という人物は盧溝橋事件のきっかけを作ってしまった人物であり、それが日中戦争に発展し、そしてそれが太平洋戦争まで発展してしまった。インドへの進攻反対派から推進派へ180度考えを変えた理由として、この戦争のきっかけを作ってしまった罪滅ぼしとして、インドに進攻してうまく行って功績を上げれば、国に対して申し訳が立つと考えたのである。

このインド進攻について、当初立案されていた21号作戦を改良して牟田口は「弐号作戦」として計画を立案した。しかし、ビルマの雨季に備えた準備は無く、現場は疲労困憊、補給に関しても問題ありで、これが無理な計画であることは誰の目にも明らかであった。しかし、それについて言及をしようものなら牟田口は劣化のごとく怒り、インド進攻をしてインパールを抑えるだけではなく、そこからアッサム地方まで取りに行くという所信まで披瀝するに至った。

こいつぁもうダメだと考えた小畑参謀長は、自分たちでは説得できないとして外圧に頼って説得を依頼したが、その行為は統率を無視したものとして、小畑参謀長は更迭されてしまうなど、まさに職権乱用といった形で牟田口は抵抗勢力をねじ伏せていった。その他の部下も、雑談ベースでは無理じゃね?と話をしつつも、オフィシャルな場での反論はできなかった。(仮に反論をしていたとしても、牟田口から却下されたであろう。)

結果的にこの弐号作戦そのものは、作戦遂行にあたって上層部と調整しているうちに雨季が間近に迫ってしまい頓挫となってしまった。しかし、牟田口の思いは変わらずであった。

作戦計画決定の経緯

このような状況下において、シンガポール南方軍司令部において、ビルマ防衛のためには一定の攻撃的な防御が必要であることを認める動きも出てきた。ただし、それはあくまで局所的かつ限定的なもので、補給や地形など確実性を伴うよう十分に準備し、もしうまくいかなければ即中止する、という弾力性を伴ったことが前提となっていた。そのため、牟田口が構想するインパール作戦は強引すぎると考え、無理のある部分は適宜作戦を修正するよう要請した。

これにより、牟田口はアッサム進攻へのこだわりは修正したものの、それ以外の部分は全く修正しなかった。内部でもこれに対する不満も出ていたが、牟田口の上司である河辺方面軍事司令官が抑え込んでしまう。牟田口の熱意と積極的意欲を十分に尊重せよ、と内部に指示をして、牟田口の作戦を変えないようにしたのである。

牟田口としては上司である河辺から指示がない以上、他から指摘を受けてもそれを一向に耳を傾けず、作戦を変えるつもりなく自らの所信に向かって進む事となった。そして無謀と思われていたアッサム進攻についても、表立っては言わずに、インパール作戦が順調に進んだタイミングで提言することで正式に上からGOをもらうことを企んでいた。そして、第15軍においてはもはや誰も慎重論を語れる状況ではなくなってきたのである。

大本営の認可

大本営ではインパール作戦について否定的な見解が有力であった。ただし、現場として攻撃的な防御が必要であるという合意がなされている以上、それを無視するわけにはいかず、また、インパールが取れなくてもインドの一部だけでも抑えることができれば、東条政権の戦争指導に一定の成功があったと政治的な効果を収めることを期待した。結果、作戦実施の決断は将来に委ねるとして、インパール作戦実施準備をするよう南方軍に指示した。

その後においても、上層部と第15軍の現場それぞれでこの作戦が無謀であり賛同していない声もあったものの、司令官の意向を汲み取ることで軍事的合理性よりも組織内の融和と調和が重視される状況になっていた。結果、大本営としても作戦を容認する方向となっていった。

東条首相からの最終確認として、インパール作戦の実現性や、失敗した場合の対応などについての質問をしたが、すでに作戦決行をするつもりだった大本営としては「全て問題なし」と回答した。しかし、これはきちんと検討をしたうえでの回答ではなく、作戦決行ありきで辻褄わせをした上での回答であった。

こうしてインパール作戦、日本側の名称「ウ号作戦」の決行が承認された。

作戦の準備と実施

さて、このインパール作戦の計画は、戦略的急襲が前提となっていた。つまり、急襲によって敵を混乱状態にしそれに乗じて一気に勝敗を決める、というもので、急襲の効果が作戦の成否に依存していた。つまり、逆を言えば急襲が失敗すれば速やかに計画を変更するコンティンジェンシープランが必要があった。しかし、第15軍にはこのコンティンジェンシープランの考えが欠如していた。牟田口によれば作戦の不成功を考えるのは作戦の成功について疑念を持つことと同じであり、士気に悪影響を及ぼすと考えていたのである。第15軍はこの作戦期間を3週間としていたが、これは作戦が不利になった場合に3週間で打ち切るのではなく、3週間で作戦が必ず収束するという希望的観測に基づくものであった

そしてインパール作戦、とくに急襲についてはある意味もう既に失敗が決まっていた。というのも、この作戦準備状況が空中偵察や監視により、インパール作戦の概要がスリム中将率いるイギリス・インド軍側に筒抜けだったためである。そのため、スリム中将は後退作戦により日本軍に必要以上に移動をさせることで疲れさせ、補給線を伸び切ったところで主力攻撃を加える、という方針で対応することとした。

作戦の準備

コンティンジェンシープランの欠如、そしてイギリス・インド軍の情報戦優位によりインパール作戦はよほどの僥倖が無い限り不成功であることが決まっていた。これに加えて、準備段階における欠陥でさらなる作戦の破綻が決定づけれられる。具体的には補給の軽視・不備である。

戦局の悪化により船舶事情は逼迫し、陸上交通も敵の制空下におかれたことで、膨大な輸送部隊の増強が見込めない状況であった。陸路を伝うインパール作戦において、補給線が途絶えれば作戦も成立しえないものであった。

ところが牟田口は初めから兵站を重視しなかった。兵站部隊が必要となるのはインパール攻略後と考えており、敵の一代補給基地であるインパールを攻略できれば、あとはこれを利用すればなんとでもなるだろうと楽観視していたのである。

そうすると補給部隊がいない前提で3週間のインパール作戦をやり遂げるには、自前で3週間分の物資を運ぶ必要が出てくる。そのため、なるべく大型の重火器は減らし、また山岳地での移動に耐えられるよう、象や牛、馬によって輸送することとした。当然、大型の重火器が不足すれば砲兵力の劣勢を招くし、象や牛、馬での移動となるとそれらをしつけるための要員確保が必要になる。結果、想定以上にそれらの動物も道半ばで死んでしまったことで、半数の武器弾薬といった軍需品は届けられずに終わってしまった。

また。羊・ヤギも同行させ、輸送用途だけではなく、食糧不足になったらこれらを食うことで歩く食料とすることとした。これを「ジンギスカン作戦」と呼び、荷物も運べて食えるなんて一石二鳥やん!と牟田口は自信満々であった。しかし、ヒツジは1日にせいぜい3㎞しか移動できず、スピード勝負のインパール作戦においてはむしろ足かせとなってしまい、結果、連れてきた家畜たちは早々に切り捨てる結果となった。

こういった状況を招いたのは牟田口による敵戦力の過小評価であろう。牟田口は「イギリス・インド軍は中国軍より弱く、果敢に立ち向かえば必ず退却する。そのため、補給を重視しとやかく心配するのは誤りである。」といった超絶楽観思考であった。

また、上層部での不連携も作戦の失敗要因である。インパール作戦を行うために中国の戦場から輸送された第15師団(※第15軍の中にある個別の部隊)は、ビルマの到着を意図的に遅らされた。つまり、インパール作戦反対派としては堂々と反対!とは言えないので、あえて軍隊の輸送を遅らせることで、第15軍の早まった作戦発起を防止しようとしたのである。ただし、これにより第15師団は到着次第、ろくな準備もできずに突入しなければならい状況にもなってしまった。結果的に、スピード勝負のインパール作戦にそぐわない体制整備となってしまったのである。

作戦の実施と中止

こうして実施に移されたインパール作戦であるが、当然のことながら大失敗に終わった。敵戦力の過小評価、突進優先による火力の劣勢、補給の軽視といったことが重なって全く敵わずという状態であった上に、雨季が例年より早くやってきたことで、一層進攻を困難にした。

本来、計画は柔軟に変更されなければならない。想定外の事象が発生したり、無理だと見込みが経ったらコンティンジェンシープランを発動する必要がある。しかし、そういった考慮がされていなかったことで、いざ想定外の事象が発生した際にはその場しのぎの中途半端なものにとどまってしまった。また、軍司令部が現場の実情を把握しなかったことで現場からの反感を買い、一層のこと作戦指揮の円滑さを妨げることとなった。

こういった状況下で現地に視察した秦参謀次長は作戦中止をするよう示唆をした。しかし、東条首相はこれを「弱気」と捉えて叱責した。東条首相としてはインパール作戦に命運を賭けていたところもあり、これが失敗すると世間からのバッシング・政権交代も覚悟しなければならない。そういった中では作戦中止が受け入れられ難い状態となっていた。結果的に、大本営内での作戦中止論者は沈黙を余儀なくされてしまい、インパール作戦が泥沼化していくのであった。

そうしてもう現場が耐えられなくなり、6月下旬になってようやく牟田口は作戦中止の決意を固めた。インパール作戦が3月8日開始して3ヶ月以上経過してからである。東条内閣はこれと前後してサイパンも失ったことで総辞職に追い込まれた。

ちなみに現場はこれで万々歳、というわけではない。退却戦に入っても日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリア赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、白骨が横たわるむごたらしい有様から「白骨街道」と呼ばれた

(これが海上戦と異なる陸上戦における退却の難しさであろう。)

失敗の本質

ここまで読めば牟田口廉也の暴走により大失敗したことが明らかであるのだが、組織的な観点や計画立案の観点で失敗の本質を探る。

人間関係重視の合意形成プロセス

そもそもこの作戦というのは必要かつ可能な作戦であったのか?元々インパール作戦が考えられたのは攻撃的な防御をすることが発端であった。しかし、攻撃的防御という方針が妥当なものであったのかを検討した形跡が無い。特に太平洋戦争の終盤に差し掛かっている当時においては日本の国力も憔悴してきている状況で、戦局全体を考慮した際に必要な作戦であったかは疑問の余地があろう。

そしていざインパール作戦が出てきた際には、東条政権の維持のための賭けといった側面が出てきてしまい、この杜撰な計画がしっかりと吟味されずに先走ってしまった。ではなぜこのような杜撰な計画がそのまま承認に至ってしまったのか。1つは部下の異論を押さえつけ自分の特異とも言える使命感を押し付ける牟田口廉也の個人的な性格、およびそれを助長した上司の河辺によるリーダーシップ・スタイルがあるだろう。それに加えて、人情という名の人間性関係重視・組織内融和を重視した組織形成により、合理的な判断を阻害してしまった側面があるといえる。

このような人間性関係重視自体は否定されるものではない。全てが形式化された官僚的組織だと全部がルールベースでの行動となり、イレギュラー時など臨機応変かつ柔軟な応対がしづらくなり、組織が硬直化する。そういった硬直化を和らげる効果として、人間性関係や組織内の融和をクッションとしていくことができるだろう。しかし、日本軍においては逆に合理的な判断やルールよりも人間関係が重視されたことで組織の硬直化を招いてしまった。

コンティンジェンシープランの欠如

インパール作戦ではコンティンジェンシープランが欠如していたことで、作戦中止の判断を困難ならしめた。メンツや保身、組織内融和の重視、政治的考慮といった、阻害要因が重なり、必要以上に作戦中止の決断を遅延させてしまったのである。初めからクライテリアを定めていればこういった阻害要因を気にせず、「XXがNGなのでコンティンジェンシープランを発動する」といった動きが取れたはずである。

牟田口廉也の良くも悪くも、というか悪い意味での楽観的思考がこのようなプランBを検討する余地を与えず、そのまま突き進もうとした結果、失敗が失敗を呼ぶことになってしまった。

個人的な所感

組織運営やプロジェクト推進においては利害関係者との調整が必ず発生する。当然各々の利害関係者全員が納得行くようにして進めていくのだが、あくまでそれは合理的な理解を得ることがゴールであり、気を使って空気を読んで場を収めることではない。ここを取り違えて事なかれ主義のように場を収めていると、正しい判断、本来あるべき姿から遠ざかってしまい、三方よしならぬ三方悪しの結果となってしまうこともあるだろう。そのため、組織のリーダーやPMは、最終目的と照らし合わせて一番合理的にするにはどうすれば良いかを見据え、相手の立場や上下関係にとらわれずに主張すべきことを主張して、最適解へと導く必要があるであろう。

また、こういった上下関係なく意見を言えるようにするために、風通しの良い組織とする必要がある。どんなに優れた意見であってもそれを上司が捻り潰してしまってはなんの意味も成さない。つまり、心理的安全性が確保できてこそ、部下上司関係なく正しいこと・合理的である結論が組織としての判断へとつながっていくと言えるであろう。

また、コンティンジェンシープランの重要性については言うまでもない。通常運営が回っているときは多少イレギュラーケースが出てもその場で対応できるであろう。しかし、大型リリースなど通常と異なることを実行するにあたっては当然失敗や想定外が起きることを考えないといけない。そのために期間バッファを設けたり、リリース前後は体制を厚くしたり、なるべく想定問答を用意して、事前に考えうるイレギュラーは前もって討ち取っていく必要がある。こういった事前準備がいざというときにスムーズにトラブル対応を行うための礎となるのである。

 

次回はレイテ沖海戦である。

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