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太平洋戦争における日本の軌跡3 ~ガダルカナル作戦~

↑AIに描かせた架空の島である。

自己研鑽の一環として『失敗の本質』を要約し、太平洋戦争(第二次世界大戦)においてターニングポイントとなった事象を記す。3回目はガダルカナル作戦である。

 

2回目のミッドウェー海戦については以下参照。

s-tkmt.hatenablog.com

ガダルカナル作戦

概要

前回のミッドウェー海戦は海軍におけるターニングポイントであったが、ガダルカナル作戦は陸軍(陸戦)におけるターニングポイントと言えるであろう。年代で言えば以下の通りである。

1941年12月8日:真珠湾攻撃

1942年6月:ミッドウェー海戦

1942年8月:ガダルカナル作戦

ここに至るまでにも、南方作戦などいろいろな戦いがあるのだが、それらの戦いでは日本軍は割と順調に勝ち進んでいた。というのも、戦争開始直後は米国を含む連合軍側の準備がまだ不足しており、日本はその状況を狙っていたためである。このおかげで一時的にシンガポールを統治下においたりしていた。

しかし、本記事2回目のミッドウェー海戦、そして今回のガダルカナル作戦において、日本の敗戦の気配が漂い始めるのである。ガダルカナル作戦においては、単に日本が負けた以上に、激しい消耗戦により餓死者・病死者を大量に出すなど、悲惨な戦いであった。

ガダルカナル作戦に至るまで

さて、ガダルカナル島はオーストラリアの右上のソロモン諸島に位置する。

なんでこんな島が戦争の舞台になったのかというと、この近くにあるオーストラリアは言うまでもなく英国、そして米国と親しい国であり、それゆえに米国の補給ポイントとなり得る。そのため、ここを抑えることができたら米国が日本に攻めて来ようにも程よい中継地点が無くなり、日本が戦略上圧倒的に優位になるのである。逆にいうとここを米国の拠点にされてしまうと、日本は圧倒的に不利になるのである。

海軍としては、(ミッドウェー海戦はボコられたけど)それまでそれなりに順調に勝ちを進めていたため、このままいけるっしょwというノリでオーストラリアを制圧すべく、まずその足がかりとしてガダルカナル島に目をつけたのである。

他方陸軍としては、それよりもまずは中国をきちんと統治したい、つまり、日中戦争のケリをつけたいという思いがあり、そのような中でオーストラリア制圧をしようとすると貴重な戦力をそちらに取られてしまうため嫌がっていた。しかし、それまで順調に勝ちを進めていたことで、まぁいけるっしょwというノリで海軍に同意したのである。

というわけで、ガダルカナル島を拠点にすべく日本から2,000人もの人を送って飛行場を建設する。とにかくスピード勝負でさっさと飛行場を作って日本のものにしてしまおうというつもりであった。しかし、米国がその情報を入手し、阻止せねばならないと考え、1942年7月4日よりガダルカナル島への上陸が始まるのであった。

作戦の経過

イル川渡河戦

1942年8月20日頃の出来事である。

米国がガダルカナル島を侵攻してきたが、それまでそこにいた日本人は軍人ではなく、あくまで飛行場建設するための現場作業員であった。そのため米兵への抵抗なんぞできるはずもなく、さっさと米国に飛行場を明け渡すことになってしまってしまったため、当然日本としてはこれを奪回することとなった。この時、日本としては米国がやってくるのはもっと遅いと思っており、今来た米兵はまだ本腰部隊ではないだろうと考えていた。

この飛行場奪回に向けて、一木清直という人物が支隊長となり2,000人でガダルカナル島を奪還するように大本営から指令が下った。

一木としては、「帝国陸軍の伝統的先方である白兵銃剣による夜襲をすれば、米国なんてちょろいっすwなんならついでにツラギ島も取ってきちゃいますよw」という余裕っぷり。ちなみに白兵銃剣による夜襲というのは中の先に剣がついている銃剣により、夜にタイマンで襲うということである。当然この時代には機関銃といった兵器は開発されているため、こんな肉弾戦はかなり時代遅れな戦い方である。

その頃、米国は水陸両用作戦という、島から島へと逐次攻撃を進められる戦法を開発していた。そして遠く離れた島ということもあり、兵糧もきちんと蓄え、そして1万3000人もの人員を集めた。一方で一木支隊にはなぜか「敵軍は約2,000人」という情報が届いていたため、正確な敵の勢力を把握できず、「とりあえず900人いれば飛行場は奪回できるんじゃね?w」という余裕モードで臨むこととなった。

一木支隊は海岸沿いの最短ルートを伝って、ガダルカナル島の中央に位置するイル川を超えて飛行場へと向かうこととした。下の図でいうと赤線で東から西へと向かったのである。

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Wikipediaより Yuki Sue. - 戦闘詳報より概図を本人作成(地図画像はGuad19420805 JP.jpgを使用), CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2181310による

しかし、イル川を超える手前にて米軍に見つかってしまい、銃撃を受ける。当然のことながら火力の差は明確で、最新式の兵器を準備した米軍に対して白兵銃剣戦法の日本軍が叶うはずもなく、機関銃、自動小銃、手榴弾等々による集中砲火を浴び、あえなく一木支隊は殲滅してしまい、飛行場の奪回に失敗するのであった。ここにて一木支隊長も犠牲となってしまった。

第一次総攻撃

1942年9月12日頃の出来事である。

無事飛行場を守りきった米軍はこれを本格稼働し始める。こうなると制空権は米国に握られるため、日本としては迂闊にガダルカナル島に近づくことができなくなった。これにより日本からガダルカナル島へ人員、武器や食料といった輸送を大規模に行うことができなくなり、高速ではあるものの小規模にしか運べない駆逐艦による輸送(ねずみ輸送)で細々と送ることとなった(ちなみに駆逐艦そのものは攻撃や偵察を行うための船で、当然ながら輸送の専門ではない。)

このねずみ輸送にともない川口支隊が上陸する。ねずみ輸送で兵糧なぞまともに来ない状況のため、この頃には元々いた一木支隊の生き残りの隊員達の食料が尽き、極度の飢餓状態に陥っていた。

さて、そんな中で川口支隊が取った作戦というのが、またしても白兵銃剣戦法による夜襲である。ただ、一木支隊とは違うルート、具体的には遠回りして回り込むことで奇襲を仕掛けることにした。一応少しは学習しているのである。

…のだが、回り道ルートの地図をきちんと用意したわけでもなく、また、その回り道自体は整備された道ではなくジャングルの中を突き進む形となったため、木や植物を避けながら進まざるを得ず、想定以上の労力を費やすこととなってしまった。

そしてなんとか突き進んだ先には、ジャングルの木々より高い小高い丘がある。この丘を越えると飛行場となるため、飛行場を奪回するにあたってはこの丘を攻略する必要があった。他方で米国からすればこの丘にいることで周囲が見渡せるため、この丘の上に拠点を築き、日本軍が登ってこようものなら丘の上から銃撃しまくれるのである。

普通に考えればこんな丘登るわけないのだが、日本軍のプライドにかけて遮二無二丘に突進仕掛けていく。当然ながら丘の上にいる米軍から発砲を受けまくり、多数の死者を出してしまうことになるのである。そしてこの丘は後に「血染めの丘」と呼ばれるようになる。

第二次総攻撃

1942年10月24日頃の出来事である。

ここに至るまでボコボコにやられてしまったので、大本営としてもさすがにこれはまずいとなり、本格的に準備をして立ち向かうこととした。川口支隊長は、地形的な険しさ、我が戦力の困憊、敵戦力の強大さを説明したものの、必勝の信念に燃える司令部の反感を買った。

こうして大量に戦力を準備してガダルカナル島奪回へと動いたのだが、ねずみ輸送でなんとか予定の半分ほどは細々送り込りこめたものの、制空権を取られているため思い通りに戦力を送れなかった。無理やり強行突破も試みたものの食料や弾薬を十分に上陸させることができない状態で戦いに臨まなければならなかった。

この状況であったため、当初は正々堂々と正攻法で戦うつもりであったが、正面攻撃は一部の部隊だけにとどめ囮とし、第一次総攻撃同様、ジャングルを迂回して夜間の奇襲攻撃をする作戦とし、またもや血染めの丘から攻める戦法とした。明らかに日本が不利であることを悟っている川口少将は「之では金城鉄壁に向かって卵をぶっつけるようなもので、失敗は戦わなくても一目瞭然だ。」と考えて辻参謀に迂回するよう進言したのだが、意見が対立し、川口少佐は罷免されてしまった。

そしていざ攻撃開始をしたのだが、それまで指揮していて現場もよく知っていた川口少佐が罷免されたので、現場は全く統制がされておらず、どこで誰が何をしているのかが不透明な状態になってしまった。そして日本軍は損害続きでろくに攻撃が進捗しなかったのにもかかわらず、「バンザイ」(作戦成功の意)の誤報を発信をするなど、明らかに現場の状況判断や連絡系統は混乱していた。なお、師団司令部は「バンザイ」をうけて業務日誌に「天下一品の夜」とデカデカ書いて喜んだりしていた。

その後も幾度と夜襲を仕掛けてみたりするものの、猛砲火を浴びて多数の戦死者を出してしまう。川口少佐を罷免したイケイケ派の辻参謀でさえも、もうこれは無理だと諦めるほどとなり、結果、司令官にて攻撃中止を発令した。

こうして多くの犠牲者を出して敗走をする。多くの死者を出したことに加え、兵糧線がか細い日本においてそれまでロクな食料が届かなかった中で、多くの負傷を匿う必要も出てきたことで、一層の食糧や医療品不足に悩まされるのであった。そういった中では戦死者よりも多くの餓死者を出しガダルカナル島の略称をガ島、すなわち"餓島"と呼ばれるゆえんである。

撤退

大本営としては、表面的にはまだガダルカナル島奪回方針を堅持していたものの、内心正直無理だろうと思っていた。しかし、それを誰も公式には言い出すことができなかった。辻参謀からの報告にて「路傍には、空っぽの飯盒を手にしたまま倒れた兵が腐って蛆が湧いている」というガダルカナル島の惨状を述べたりもしたが、撤退までは名言しなかった。

こういった状況の裏としては、陸軍、海軍ではライバル意識があり、各々のメンツを重んじ弱音を吐くことができない風潮にあった。つまり、どちらかが撤退というまでは、自軍は撤退とは言えない雰囲気だったのである。

とはいえ、現場は極限状態にいる。さすがにもう無理だろうということで、軍令部総長参謀総長からガダルカナル島撤収案を天皇へ上奏し、結果上層部から撤退の意思決定が下されたのはなんと1943年1月4日、第二次総攻撃から3ヶ月以上経ってからであり、それまでグダグダと撤退しようかどうか考え中、という状態だったのである。当然この間、ガダルカナル島にいた日本軍は飢餓状態であり、マラリアなどの病気も加速度的に進行したことで、数千人におよぶ戦病死者を出すことになった。

失敗の本質

戦略的グランドデザインの欠如

米軍としてはガダルカナル島を手にすることで、日本本土への直接上陸に向けた足がかりとなるのが明確であった。米国は最終的に日本本土へ直接攻撃をしかけて降参させる、というのがこの戦争の終わらせ方として考えていたシナリオなのである。そのため、日本が飛行場建設していたこの島を、日本が使い始める前に占領することが緊急の課題であった。

他方で日本において、陸軍は中国大陸を主力におくことで連合軍に対抗し戦争を終結することを考えており、ガダルカナル島含めた南太平洋の島々はまったく重要視していなかった。(なんならガダルカナル島という名前すら知らない陸軍中枢部もいた。しかも陸軍としては敵国米国がどういうシナリオの元この戦争を終わらせるか、というシミュレーションをしていなかったので、いずれ米国が日本本土に直接侵攻するとも考えていなかったのである。)

そして海軍においてはソロモン海(南太平洋)付近に米艦隊主力を集めて、それらを殲滅することで戦争を終結することを考えていた。そのため、ガダルカナル島奪回は必要不可欠と考えていたのである。(ただ、海軍としても米国の研究をきちんとしておらず、米国が陸海空を統合した総力戦をガダルカナル島に仕掛けてくるとは予期していなかった。)

以上を踏まえると、陸軍と海軍で最終的なゴールがずれていたのである。その結果、陸海空を統合して水陸両用作戦を仕掛けてきた米国に対して、日本は逐次的に、悪言い方をすれば行き当たりばったりで戦力を投下していくことになるのであった。

攻勢終末点の逸脱

陸軍における兵站線(へいたんせん:物資の輸送や管理全般のこと)の認識が基本的に欠落していた。陸軍はその土地に上陸して戦うため、物理的に物資を運び、貯蔵し、管理する必要がある。それまでの陸軍における補給は敵軍から奪取するか現地調達する、というのが常識であったため、戦略的に兵站線を確立することができておらず、ガダルカナル島へ向かう中継地点を確保するといったこともしていなかった。その結果、多くの輸送船が米航空戦力によって沈没させられたのである。

また、海軍はその特性上、兵站線の確保の必要性が薄い。船に必要となる分を積めばよく、そこで貯蔵・管理が可能であるためである。万が一足りなくなればそのまま引き返せば良い。陸軍ならび陸上戦では敵地に乗り込む以上、そのまま引き返すこと自体がえらく難しいのであるため、そういった避難経路含めて確保が必要となるのである。

統合作戦の欠如

米軍側は陸海空を統制するために、各組織間における情報運用体制の整備と、高性能な通信システムを整備した。これに対し日本は、各組織内での単位で通信システムの整備・情報運用を行っていた。そのため、陸海空が連携し合う必要がある場合でも、陸軍と海軍がバラバラの状態で戦う結果となってしまった。

第一線部隊の自律性抑圧と情報フィードバックの欠如

作戦司令部においては、兵站無視、情報力軽視、科学的思考方法軽視の風潮があった。それゆえに日本軍の戦略策定においては硬直的・完了的な思考により机上での計画となってしまった。それまでの戦いでうまくいっていたのは戦略の巧みさではなく、現場の練達した戦闘技量によるものであった

ただ、これ自体は決して否定されるものではなく、そういった現場の経験を元に戦略へと反映できれば、結果的に戦略も洗練されていくであろう。しかし、川口少佐が罷免されたように、こういった現場からの声は却下されてしまい、現場からのフィードバックが存在しなかった。また、大本営のエリートたちも自ら現場に向かう、といったこともせず、何千キロも離れた東京の机上で、現場の惨状を実感すること無く過ごしていたのである。

個人的な所感

ゴールの共有

プロジェクトであれ組織運営であれ、ゴールを共有しそこに向かうことが重要である。このゴールが曖昧化し共有が曖昧化すると統制が取れずに大きな回り道をしたり、トラブルに繋がることもあるだろう。極論を言えば、4/1にリリースをする、というゴールがきちんと共有されておらず、各々が3/10にリリースする、4/25にリリースする、といった認識でいれば、当然その期日に向かってどう動いていくかはバラバラとなるであろう。

特に大型プロジェクトの推進となると、さまざまな利害関係者を巻き込むこととなるため、その共有が一層難しくなる。そのため、PMは意識的に情報をメンバにフィードし、全体共有される状況を生み出さなければならない。

情報連携経路の整備

通常運営でもそうだが、特にトラブル時やリリースなどのイベント時においては誰が誰に連絡をする、といった情報網を整備することが重要である。それまでの運営からなんとなく「AさんがBさんに連絡するだろう」というのが自明であっても、それを明文化し、事前に整備をしておかないと、いざ当日になって誰が誰に連絡をしているのか不透明になり、情報錯綜の原因となってしまう。

また、立場や役割によって必要となる情報は大きく異なる。そのため、リリースなどのイベントにおいてはいつ、誰が、誰に、どういった内容を連絡するか、というのを整備し、必要な情報を必要な関係者へ周知できるようにする準備が重要となるであろう。

現場主義からの脱却

日本の経営においては長らく現場主義という言葉がはびこっていた。そのため日本の経営者は、高い目標を掲げてそれの実現にあたっては全て現場任せで進めてしまい、結果、無理なノルマが課されても現場からはそれに対する声を上げることができず、検査や会計の不正が発生へとつながってしまう。東芝での不正会計や日野自動車の不正検査、ビッグモーターの手法など、このような問題は定期的に発生する。

もちろん、最終的に現場の頑張りが必要となるし、現場への権限移譲も必要となるのだが、それが放置主義や現場任せになってしまってはいけない。経営層として現場をコントロールできなければ、やがてそれは大きな傷となって返ってくるであろう。

 

続きの第4回目はインパール作戦

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