一生旅行生活してえ

最近は主に資格取得関連のメモとか勉強法とかを整理

太平洋戦争における日本の軌跡5 ~レイテ沖海戦~

※↑AIに描かせた8bit調のイメージ。

自己研鑽の一環として『失敗の本質』を要約し、太平洋戦争(第二次世界大戦)においてターニングポイントとなった事象を記す。5回目はレイテ沖海戦である。

4回目のインパール作戦については以下参照。

s-tkmt.hatenablog.com

 

レイテ沖海戦

概要

1944年10月、終戦まで1年を切り、太平洋戦争ならびに第二次世界大戦の終盤と言える時期の出来事である。

双方合わせて20万人以上の海上兵員が参加し、日米共に稼働艦艇と航空機を総動員した膨大な数の兵器が投入されている事から史上最大の海戦と称される事もある。

レイテ島はフィリピンのほぼ中央に位置する島である。フィリピンはちょうど日本とインドネシアの中間にあるため、インドネシアなどの南方島々で採掘される石油を日本に運ぶにあたっての中間地点にある。ここをもし米国に取られてしまうと石油の輸送が不可能となる。また、台湾や沖縄にも近いため、ここを拠点にされると日本本土を襲撃されるおそれが出てくるのである。

結果で言えばこのレイテ沖海戦で日本は壊滅的な損失を被り、日本本土と南方島々を結ぶ補給線が絶たれ、そしてその後は不幸なことに日本本土への襲撃が現実となってしまうのである。そして、この頃になると日本もジリ貧状態となり、質量ともに劣勢な航空へ兵力を補うための作戦として「神風特別攻撃隊」が初めて組織的に採用されるようになる。

また、この戦いにおいては栗田艦隊における「謎の反転」という不可解な行動が起きている。これについては未だに謎が多いものの、ここに至る作戦計画・統帥・日本軍の組織的案体質、特性といったことに着目することで失敗の本質が得られるであろう。

捷一号作戦計画の策定経過

捷一号で「しょういちごう」と読む。レイテ沖海戦は全4つある一連の捷号作戦のうちの第一捷号作戦に該当する。なお、全4つある捷号作戦の内訳は、捷一号(フィリピン島)、捷二号(台湾、南西諸島)、捷三号(本州、四国、九州)、捷四号(北海道)となっている。

サイパン島陥落後

レイテ沖海戦の前に、サイパン島の戦いにて日本はサイパンを奪われることになる。このサイパン島というのが日本における本土防衛上及び戦争継続のための超重要ポイント「絶対国防圏」として定めていた場所であった。

サイパン島はちょうど絶妙な場所にあり、米国の航空機がここを出発すると、日本を攻撃してそのままサイパン島に帰ってこれる距離感に位置していた。つまり、途中で補給ポイントなど不要で、往復分の燃料で行って帰ってこれる場所なのである。そのため、ここを取られると日本からすれば本土への攻撃が現実的になってしまうため、「絶対国防圏」として制定していたのであった。

この超重要ポイントサイパンが取られた日本は後がなくなってきたので、大本営にて乾坤一擲の決戦構想(要は一か八かの勝負)を仕掛けることとした。これが捷号作戦の基本構想である。具体的には以下の通りである。

敵が決戦方面に攻めてきた場合は、空・海・陸の戦力を極限まで集中し、敵空母と輸送船を所在に捕捉して徹底的に撃破する。敵が上陸してきた場合は、地上で徹底的に撃滅する。この際、タイミングを逃さずに、事前に待機させている空軍・海軍が協力して反撃部隊をもって、最大限敵を反撃する。

つまり、今ある戦力を陸海空を使って全投入するということである。捷号作戦においては、4つのエリアいずれに敵が来ても、上記の通りの総結集で起死回生の決戦を行うよう計画をした。

しかし、日本ではミッドウェー海戦以後、多くの優秀なパイロットを失ってしまっているため、捷号作戦の準備としては航空部隊の再建に重点をおいた。陸海空の総力戦としていこうとしていたが、海軍は敵勢力の根幹である機動部隊(空母)を撃滅するべきと考え、陸軍は上陸をされないよう戦闘員を乗せた輸送船を攻撃すべきと主張した。陸軍の主張は海軍のそれまでの"実績"を考慮したものであったため、海軍としては不本意ながら陸軍の方針をベースとすることに従うこととなった。

マニラでの作戦会議

作戦実施に先立って8月10日にマニラで捷号作戦に関する打ち合わせが行われた。ここにおいて、小柳参謀長より計画の説明を実施した。小柳参謀長というのは栗田側の人物である。

小柳参謀長「計画としては、敵主力艦隊を攻撃するのではなく敵の輸送船団を攻撃するものです。ただ、海軍としては艦隊決戦思想で今までやってきたし、これこそが至高だと思っているので本当は敵の主力と戦いたいけど、作戦というのであれば仕方ないと考えています。連合艦隊司令部としても良いですかね?下手するとここでやられる可能性もあるわけですし。」

神参謀「フィリピン島取られたらどうしようもないですしね。もし取られてしまったら決戦に向けて艦隊を保存していても宝の持ち腐れになってしまう。だからこの一戦ですり潰されても悔いはないですわ。」

小柳参謀長「そこまで言うならよくわかりましたが、実際そんな簡単にできるものでも無いとも思ってます。結局、敵艦隊としても全力で阻止するだろうから、どっちみち敵主力との決戦はできると思うんです。というわけで一応、栗田艦隊は命令どおり輸送船団を目指して敵港湾に突進するのですが、途中で敵主力部隊を見つけた場合は、輸送船団狙いは捨てて敵主力の撃滅に専念するけど、差支えないですかね?」

神参謀「OKっす。」

小柳参謀長「これ、超重要ポイントだから、上にもちゃんと話しといてね。」

神参謀「了解っす。」

この太字箇所が後々大きな影響を及ぼすこととなる。

ここで補足すると、日本海軍はそれまで艦隊決戦思想を前提とした戦い方や軍事研究・訓練を積み重ねてきた。艦隊決戦思想というのはとにかくでかい戦艦を用いて相手の主力を打ち負かすという戦い方で、日露戦争において日本はこれで勝利を収めたこともあり、この戦い方に自信とプライドを持っているのである。

そのため日本海軍においては、セコセコと輸送船団を攻撃して勝つというのはある意味卑怯な戦術と捉えていたのである。もちろん、状況が状況なのでそういう作戦になるのは致し方ないのは納得しているのだが、そんな中で運良く(?)敵の主力を見つけたら一騎打ちをさせてくれ、ということをここで約束したのである。

なお、第二次世界大戦においては航空機並びに空母が躍進するようになり、艦隊決戦思想による艦隊のガチンコ勝負というのは時代遅れの戦法になっているのであった。

台湾沖航空戦

さて、捷号作戦が固まってきたところで、いざそれを発動することとなるレイテ沖海戦に突入するまでに発生した事件のうち、特に今後の戦況に影響が大きかった台湾航空戦について記載する。

10月12~14日の3日間にわたり、米機動部隊により台湾が大空襲に襲われた。日本側は航空機だけで500~600機を一気に失う結果となる大損害だったのだが、日本軍は「莫大な成果を上げることができた」という報告を行った。大本営としても現場からそういう報告がされる以上信じざるを得ず、そのまま戦果を集計し発表した。そして国民は「アメリカ機動部隊せん滅!」の大勝利に沸き返ることとなった。

なぜこのような180度も異なる報告がされたのかは諸説あるが、暗闇の戦闘による誤認・搭乗員の未熟さ・未帰還機に対する指揮官の音声等々、要因が重なったと思われる。

捷一号作戦の展開-レイテ海戦-

捷一号作戦の発動

10月16日、台湾航空戦をしている頃、栗田はインドネシアスマトラ島のリンガいた。台湾航空戦が終了した後、米国の「残敵」が台湾東方にいるためこれを片付けるよう出撃命令が下されており、準備しているところであった。もちろん、これは誤報を前提としているので、実際は「残敵」なんてもんではない。

10月17日、米国のハルゼー大将率いる空母機動部隊はほぼ無傷の状態なので、さっさとレイテ島攻略に向けてレイテ島すぐ近くにあるスルアン島に上陸した。日本側でもこれを検知し、海軍見張所からも敵艦艇が多数レイテ湾内に進入してきた旨の報告が上がってきた。

見張りから上がってくる報告は断片的であったり真偽が不確かであったりしたが、連合艦隊司令部はさすがにこれはやばいかもと思い始め、捷一号作戦の発動に向けた準備を本格的に開始した。(捷一号作戦警戒の発令)

10月20日、各種準備や捷一号作戦実施にあたっての実施計画を詰めていき、そして豊田長官により「決戦要項」を発行した。

以後はこの海戦においてもっとも重要人物と言える栗田および栗田率いいる第一遊撃部隊を中心に焦点を当てて記載をしていく。

レイテ湾突入計画

栗田は元々16日に台湾にいる「残敵」を蹴散らすように言われていたが、捷一号作戦警戒の発令に伴い、10月18日にインドネシアスマトラ島からブルネイへと到着した。

その後10月20日に決戦要項が発行されるとレイテ突入計画の策定を行った。

10月21日、検討した結果、全艦隊を一方面から進出させるより、南北に分かれてレイテ島へ突入する方が有利だろうという結論に達したため、以下の方針で北方ルートと南方ルートで進む艦隊をレイテ島で合流させることとした。

1.栗田艦隊は戦艦大和、武蔵を主軸とした水上部隊によって北方からレイテ湾に突入する。(最新式で速い軍艦のため、遠回りとなる北回りで移動する。)

2.西村艦隊と志摩艦隊は各々南方から栗田艦隊と同時にレイテ湾に突入する。(旧式の遅い軍艦のため、最短ルートである南回りで移動する。そして1とレイテ湾で合流する。)

3.小澤艦隊は優勢な敵機動部隊を栗田艦隊から逸らすために、囮となって北方へ誘い出す。

4.航空部隊はそれに先立って、敵空母軍を攻撃し、レイテ湾突入に対する敵の航空攻撃をなるべく阻止する。

これを地図で表すと以下の通りである。

ブルネイ出撃

10月22日、栗田艦隊は燃料補給をおこない、いざブルネイからレイテに向かって出撃した。

10月24日、シブヤン海に入った栗田艦隊は敵艦隊から5次に渡る猛攻撃を受けた。ここにて、主力戦艦の「武蔵」を失った他、いくつもの軍艦を退陣させられた。当初の作戦であった「4.航空部隊はそれに先立って、敵空母軍を攻撃し、レイテ湾突入に対する敵の航空攻撃をなるべく阻止する。」に基づいて、航空部隊にも支援を要請したが、悪天候・機体の性能の低さ・パイロットの練度の低さ等々により見るべき戦果を挙げられなかった。それどころか多数の飛行機を失う羽目となった。

その後、栗田は敵の空襲を避けるために反転したり、その後また敵の攻撃が落ち着いたので再反転したりとシブヤン海で彷徨う状態となった。これにより予定より6時間ほど遅れが生じてしまった。

栗田艦隊の反転

10月25日午前3時、栗田艦隊はサンベルナルジノ海峡を通過した。(上記地図の右側)海峡エリアは幅が狭いことから集中的に狙われるポイントとなるため警戒をしていたのだが、「3.小澤艦隊は優勢な敵機動部隊を栗田艦隊から逸らすために、囮となって北方へ誘い出す。」が功を奏して米機動部隊はこちらの方を捉えるべく北進していた。そのため栗田艦隊は思いの外すんなりとサンベルナルジノ海峡を通過し、その後サマール島沖を進むことができた。

しかし、6時45分、サマール島沖に見張員が敵の艦隊を発見した。これは護衛の空母軍であり、商用船を改造した応急船という二軍レベルの艦隊であったのだが、栗田艦隊はこれを正規空母軍と見誤っていた。この艦隊とドンパチしていくのだが、このタイミングでスコールが降り、視界不良であったことも災いし、日本側にも逐次被害が出ていた。ただ、栗田はこれに応対しつつ目標であるレイテ島・レイテ湾に向かって南下していった。

そして引き続き敵の空襲を受けたりしながら南下していたのだが、12時26分、なぜが反転して逆方向へと進んだ。これが「謎の反転」と呼ばれるものである。

これはつまり本来の目的であった「(輸送船を追撃するために)レイテ湾に突入する」という当初計画を中止するという重大な作戦方針の変更であった。これに伴い以下の打電をした。

第一遊撃隊はレイテ泊地突入を止め、サマール東岸を北上し、敵機動部隊を求め決戦、爾後サンベルナルジノ水道を突破せんとす

つまり、マニラでの作戦会議で例外事項として設けていた「途中で敵主力部隊を見つけた場合は、輸送船団狙いは捨てて敵主力の撃滅に専念する」を実施したということである。商船を修理した二軍の連合艦隊正規空母軍と見誤ったのが災いしたのである。

そして、当然のごとく作戦は失敗となるので、結果的にレイテ沖海戦では日本は多大な損失を出して終了した。他方アメリカはレイテ島およびフィリピンに拠点を築くことができ、本来の目的を達成することができて幕を閉じた。

なお、レイテ沖海戦は最大級の海戦であったため、これ以外にさまざまな戦いや出来事が同時多発的に発生しているが、これを全て書いていこうとするとかなり複雑になるのと、ここ(『失敗の本質』)では栗田の行動について焦点を当てているため、割愛する。そのため、神風特別攻撃隊などについても特にこれ以上の言及は無い。

失敗の本質

作戦目的・任務の錯誤

この海戦が起こったのは1944年で日本はもうボロボロになってきているときであった。日米との生産力の差も大きく開き、特に航空機生産については日本はもう追いつくことができなかった。仮に機体そのものは作れたとしても、それを操縦する優秀な操縦士はすぐには育たない。物的資源においても人的資源においても日本軍は劣勢な状態であった。

ジリ貧状態においてもなんとか作戦成功にもっていこうとするのであれば、相当な戦略的対応が必要となる。これを達成するにはここの戦略的対応を統合的にまとめあげ、整合性を確保していかないとならない。それにあたっては作戦目的を明確化し、それを作戦参加メンバーにて共通認識のもとに共有されている必要がある。

では、今回においてはどうだったか?

日本海軍においては、戦艦と巨砲を駆使した「艦隊決戦」を最重要視していた。栗田艦隊が率いていた戦艦大和や武蔵はそういった思想の結晶であった。

しかし、連合艦隊における作戦要項としては、艦隊決戦ではなく輸送船殲滅に向けた「レイテ突入」が作戦の主目的であった。

どちらかが正しい、適切ということはここでは問題ではない。本質的な問題は作戦の立案者と遂行者の間で戦略目的において重大な認識の不一致が起きていたということである。

戦略的不適応

捷号作戦実行前に、台湾沖航空戦などで大量の航空機消耗を招いた。もちろんこれは航空機そのものだけではなく、それを運転する操縦士の喪失も意味する。

この大幅な戦力低下があったのにもかかわらず捷号作戦は規定方針通りに実施された。結果、この尻拭いは現場でなんとかするしかなくなってしまい、弱小戦力でなんとか凌ぐしか無かった。その結果、特別攻撃、いわゆる特攻といった無謀な戦術も生み出していくことになるのであった。(本記事は栗田艦隊に着目したため、特攻に関する内容はほぼ記載していないが)

情報・通信システムの不備

レイテ海戦のように広範な地域での同時多発的な戦闘の展開にあたっては、的確な情報連携が必要となる。しかし、日本軍はこの情報・通信システムの活用にて重大な欠陥を持っていた。

栗田艦隊の旗艦(司令官が乗っているメイン戦艦)としていた「大和」に乗っていた通信員は、艦隊旗艦としての通信に慣れておらず、通信員相互間での連絡が不十分となったことで、艦隊司令部の通信能力の低下につながっていった。旗艦は要は司令塔となるため、そこにおける通信技術や応対スキルは末端の戦艦におけるそれを超えたレベルが求められるのである。

また、栗田艦隊を始めとした日本艦隊間の無線の状態が極めて悪く、不正確な情報や誤報にしばしば振り回された。栗田が反転したのもこのような不正確な情報により判断を誤ったと考えられる。

高度の平凡性の欠如

捷号作戦は小澤艦隊による囮など一部はうまく行っている部分もあった。これにより、米軍側も戦後になるまでこれが囮であることを理解できていなかった。また、米国側も完全にうまくやりきっているかとそうではなく、一時的にレイテ湾周辺の防御が手薄になったりするなど、ミスをしてないわけではない。

しかし、このような結果になったというのは、つまり日本軍の犯した失敗が米軍のそれより大きかったということである。日本軍人における勇敢さやここの士官の優秀さは米軍も認めるレベルであったが、あくまでそれはその個人のスキルに依存しており、複雑に組織化された現代戦において必要となる「高度の平凡正」が欠けていた。

具体的には以下のような点である。

・聡明な独創的イニシアチブの欠けていたこと

・命令または戦則に反した行動をたびたびとっこと

・虚偽の成功の報告を再三報じたこと

こうした1つ1つの失策が積み重なり作戦失敗へとつながっていった。こういったミスを減らしていくには、日常的な行動として叩き込まねばならないが、十分に徹底されないことで、例えば捷号作戦の目的と栗田の目的がずれていく結果となった。これは栗田だけのせいというだけではなく、軍令部・連合艦隊としてもそういう作戦である以上、きちんと明確な指示を与え、そしてその目的を達成できるようバックアップしていくべきだったのである。

個人的な所感

ここにおいても大方針としての作戦レベルでの目的と、現場レベルでの目的がずれたことが遠因で、最終的に取るべきアクションにズレが出てくる例となった。

ノモンハン事件ガダルカナル作戦では目的が曖昧化することで引き際や利確ラインが不透明となってしまい、適切な撤退判断ができなかったことが問題となった。今回は目的そのものは明確であったものの、それが上層部レベルと現場レベルで相違していたことで、本来達成したいゴールへたどり着けなかったことが問題であろう。

特に一か八かの一発勝負という場合であれば、全員が同じ方向を向いてことを成し遂げないと行けないはずである。そこにおいては、当然のことながら上層部レベルと現場レベルでの目的は一致してないといけない。例えばシステムトラブルの対応においては、上層部としては一刻も速い業務復旧を目的と考えるが、現場IT担当は終始そのトラブルの原因究明を目的として動いてしまうことが多い。これにより、スピード感をもった対応が遅れてしまい、業務影響が波及してしまうということがよく起こる。

そしてトラブル対応含め、このような迅速で協調的なチームワークを発揮するためには、個々人の高度なスキルに依存するのではいつか限界が来てしまう。そのため普段からそういった動きができるよう、メンバに浸透させ、組織の基本動作として確立しておく必要があるであろう。

「高度の平凡正」というのは今の言い方で言えば「標準化」といったところであろうか。総力戦においては個々人のスキルではなく、集団としてのレベルの高さが重要となる。それは会社組織でも同じで、スタートアップでは数人の優秀なメンバーで革新的なサービスや製品を作り上げれば良いが、組織が大きくなっていくとそれを誰でもメンテナンスできるような仕組みや整備が必要となる。一般的にはマニュアル化や研修によって人材育成を行っていくことで、一部のコアメンバーがいなくなっても、その製品やサービスの持続性を組織として担保していくことができるであろう。

次回は沖縄戦

s-tkmt.hatenablog.com