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バブル経済はなぜ起きたのか

最近、日経平均株価がバブル期の最高値を超え4万円超を更新しており、それをうけて日銀もマイナス金利を解除するなど、経済に関するニュースが活発です。

そういった中で、改めてかつて日本で起きたバブル経済とは何だったのかを整理していきたいと思います。

バブル経済の歴史

終戦直後の状況

1945年、第二次世界大戦終結し日本は敗戦国となりました。戦争によって空襲を受けたり、原爆を落とされたりして、多くの人が犠牲になってしまい日本は焼け野原と化しました。このような状況の中、ボロボロな状態の日本は米国(GHQ)の統治下に入り、政治や経済を0から立て直していきます。

最初は不安定な状況でありましたが、1950年頃から朝鮮戦争に伴い日本から多くの軍事用品や食料、繊維や鋼鉄素材等々を輸出することになり、朝鮮特需と呼ばれる好景気を迎えることとなりました。

1960年代になると東京オリンピックが開催されます。これに伴い、高速道路や新幹線、地下鉄といった交通インフラが整備され、様々なオンリピック用の競技施設や観光客を受け入れるホテルなど、次々と新しい建物が建設されていきました。

戦後の経済成長

こうして日本が戦後からどんどん復興して1970年代には高度経済成長期を迎えます。戦争でボロボロになって0からスタートした日本が、この頃には世界有数の経済大国の頭角を表していきます。このように成長できた要因としては色々あります。

例えば日本は戦後からベビーブームなどを経てどんどん人口が増え、人口ボーナス期を迎えます。日本の人口は右肩上がりで増えていき、1967年に1億人を突破します。1億人という人数にピンと来ないかもしれませんが、1億人という人口は世界でもTOP10レベルであり、少子化が叫ばれている現在の日本においても世界で第11位の人口を誇るだけの人口です。

また、第二次世界大戦中、日本は自前で多くの航空機を作っていたのですが、敗戦後、アメリカから航空機を作ることを禁じられました。というのも、アメリカは第二次世界大戦において日本が作った戦闘機にて多数の被害者を出しており、引き続き航空機を作らせてしまうと、日本の技術力を持ってすればアメリカに歯向かえるだけの戦闘機を作りかねないからです。

そのため、航空機を作っていた技術者達は自動車を初めとした製造業へ転職せざるを得なくなったのですが、これが日本において自動車産業が大きく成長する要因にもなっていくのでした。

このようにして車をはじめとした品質の高い日本製品は世界で売れまくるのでした。特にアメリカでは安くて高性能な日本製品の需要が高かったため、日本はアメリカに対して輸出しまくるのでした。

貿易摩擦

ところがこの状況は、アメリカ経済という観点では望ましくありませんでした。というのも、アメリカは日本車を始めとした日本の製品をいっぱい買いますが、日本はアメリカの製品をそこまで買いません。こうなるとアメリカは輸入超過となり貿易赤字となります。それだけならいいのですが、例えばアメリカに日本車が溢れることでアメリカ製の自動車工場で働いている人たちの雇用も失われ、多くの人が路頭に彷徨うことになりました。

こういったことが度重なり、アメリカ内部で日本車を初めとした日本製品、そして日本そのものに対する反発が高まり、中国系アメリカ人技術者のビンセント・チンという人が日本人と誤解されて、3人の白人に撲殺されるという事件も起きてしまうほどに至りました。

そこでアメリカはドル円の為替レートを変えることでうまく調整することとしました。

例えば為替レートが1ドル=150円だとします。ここで、150万円の日本車があった場合、アメリカは1万ドルを出せばそれを買えました。(1万ドル=150万円)しかし、これが例えば1ドル=100円だとした場合、アメリカは1.5万ドル支払わないと車が買えません。(1.5万ドル=150万円)つまりアメリカからすると日本車が1万ドルから1.5万ドルへ値上がりしたように見えます

逆の立場を考えます。日本は日本でアメリカ製品を輸入します。1ドル=150円時代は、100ドルの製品を買うのに1万5千円払わないといけませんでした。(100ドル=15,000円)しかし、同じように1ドル=100円となった場合、100ドルの製品を買うには日本は1万円払えばOKです。(100ドル=10,000円)つまり日本からすれば1万5千円が1万円に値下がりしたように見えます

こうすることで、アメリカからすれば「日本車高いから買うの抑えよう」という圧力が働き、日本は「アメリカ製品が安くなったからいっぱい買おう!」という圧力が働くため、結果的に日本は貿易赤字アメリカは貿易黒字になっていきます。このように1ドル=150円から1ドル=100円のようになることを円高といいます。

円"高"とは言いつつも、1ドルが150円から100円に下がっているためややこしいのですが、以前は同じものを買うのに1万5千円払わないといけなかったけど今は1万円払えばよい、つまり、少ない円で買える=円の価値が上がったということで円高といいます。

プラザ合意、円の高騰

アメリカはこういった為替レートの調整でうまく自国の貿易を守ろうとするために、主要な国の偉い人たちを集めてニューヨークのプラザホテルで会議を行いました。この会議にて、日本やヨーロッパといった国が協力して円高にしていくことを合意(プラザ合意)し、各国政策を見直しして為替レートの調整を行いました。(なおこれは今で言うG7とかG8にあたる会議で、当時は先進5カ国で行ったためG5でした。)

その結果、日本の為替レートは急に円高方向に動くことになりました。この当時は1ドル=250円程度だったのですが、3年後の1988年には1ドル=125円近くまで向かいます。つまり、為替レートが倍(1/2)になったのです。

アメリカとしては狙い通りであったものの、日本としては困った話になります。これにより相対的に車の値段がアメリカでは2倍となるので、一気にアメリカで日本車が売れなくなりました。(1ドル=250円であれば1万ドルで250万円の車が買えますが、1ドル=125円であれば、2万ドル払わないと250万円の車が買えなくなります。つまりアメリカからすると車の値段が2倍になったように見えます。

それまでアメリカ相手に売れまくっていた車が売れなくなると、当然日本企業の経営に影響が出てしまいます。車そのものを作る企業もそうですが、その部品を作る企業など関連する企業にも影響は波及していきます。なお、ここでは車を例に出しましたが、当然車以外にもいろんなものを日本は輸出しておりますので自動車産業以外にも影響がでます。

金融緩和

そこで悲鳴を上げている企業を救うために大規模な支援をします。具体的には政策金利の大幅な引き下げを行いました。

政策金利というのは日本銀行によってコントロールしている金利です。日本銀行は"銀行の銀行"の役割を持っております。各銀行は大量の資金を扱うにあたり、一定額を日本銀行に預けておくことが決められており、いざ何かあった場合にはその資金をもとに支援してもらうことができます。この日銀に預けているお金にもいわゆる利子がつきます。

高い利子がつけばたくさん日銀に預けておいたほうが得ですが、利子が低くなると日銀に預けておいても大して増えないので、それであればなるべく企業に貸し付けるなど、投資や運用にまわしたほうが収益を確保できます。

つまり、日銀にて金利を引き下げる→各銀行は日銀に預けるより、企業に貸し出したり投資に回したほうが稼げる→市中にお金が出回る(景気が活性化する)

という、風が吹けば桶屋が儲かる理論で景気を刺激するのです。これにより、円高で経営危機に陥っている企業にも銀行は資金を貸しやすくなり、助けることができるのです。

不動産価格や株価の高騰

これで日本企業が無事守ることができたのですが、政策金利の引き下げにより、市中に出回ったお金が今度は余り始めました。そもそも、円高になったところで、全部が全部日本の企業に影響があるわけではありません。海外とやりとしていない会社であれば円高だろうが円安だろうが関係ないですし、海外製品を輸入している企業はむしろ円高のほうが安く買えるのでありがたいです。悪くもそういった企業にも余分にお金が回り始めてきてしまったのです。

人間、いくらお金持ちであっても、生活していく上で必要なお金はある程度あれば十分なので、使わないお金が出てきます。そのため、企業や個人においても、こういったお金を貯金するのではなく、株や不動産に投資して大儲けしようと考える人がたくさん出てはじめてきました。

この頃日本においては、土地神話が根付いていました。国土が狭い日本においては土地が限りある貴重な資源となります。製品などいわゆるモノは足りなければ作ればよいですが、土地は足りないからと言って作れるものではありません。そしてこの頃は人口ボーナスで日本の人口もどんどん増えています。そのため、土地の希少性・値段は基本的に上がり続けていく、という考えが国民に定着していました。

この考えがあることで、「土地の購入→土地の値上がり→売却して大儲け→儲けたお金で更に土地の購入→土地の値上がり→売却して大儲け…」という正のスパイラルが生まれ、余ったお金をみんなが土地(不動産)に投資することで、どんどん土地の価格が急上昇していったのです。また、「どうせこのあと値段が上がるんだから、多少高くても今買ってしまおう」という心理により、価格が必要以上につり上がってしまったのです。

そのうえでこの信用を担保にした貸出も行われます。どういうことかというと、いくらバブル期でお金が余っていると言っても、土地や不動産は数千万円はする代物なので、普通には買えず銀行からお金を借りて買うことになります。銀行からお金を借りるにあたっては、銀行側は「年収がこれくらいなら貸せるのはこれくらいかな…」といった審査をするのですが、「今後この土地が値上がりするのだから、この人の年収低いけど貸してしまおう。もしお金が返せなくなれば値上がりした土地をもらってしまえばOK」といった感じで審査基準がゆるくなってきたのです。こうして土地・不動産がより買われやすくなり、結果、価格は果てしなく上がり続けるのでした。

また、こういったことが個人ではもちろん、企業レベルでも土地や不動産の購入、大規模なリゾート開発、新しいビルの建設といったことで、今後の不動産価格の値上がりを期待して銀行から多額の資金を借り入れて投資をしていくのでした。

そしてこれと同じようなことが株式でも起こります。株価もどんどん上昇し、1989年には日経平均株価が3万8915円という値をつけました。これは2024年2月22日に34年ぶりに更新するまでの最高値でした。

なお、このように買われたのは不動産や株式だけではありません。こういった価格高騰のそもそものきっかけはプラザ合意による急な円高ですが、円高になったということは海外製品が相対的に安くなることになるので、どんどん海外のモノが買われました。それは海外製品といったレベルではなく、安田火災(現:SOMPOホールディングス)によるゴッホの「ひまわり」のような芸術品の購入であったり、ソニーよる「コロンビア ピクチャーズ」の買収といった会社の買収にもつながっていきました。

金融引き締め

株価にしろ不動産にしろ、さすがにこれは異常な上がり方となってしまったため、日銀は政策金利の引き締めを行います。要は利上げを一気に行ったのです。利上げをすると先程の利下げと逆の減少が起きます。つまり、風が吹けば桶屋が儲かる理論において、以下の状況となります。

日銀にて金利を引き上げる→各銀行は日銀に預ける方が得なので、企業に貸し出したり投資に回さなくなる→市中にお金が出回らなくなる(景気が後退する)

また、第2次海部内閣にて総量規制という不動産に関する規制を行いました。不動産価格が上がりすぎたため、これ以上上がりすぎないように上限を設けたり、不動産購入にあたり銀行がお金を貸すにあたってのチェックを厳しくしました。

これにより、値段が上がり続けると思われた土地や株式が頭打ちになり、正のスパイラルで膨れ上がった価値が一気に冷え込みました。つまり、「もうこれ以上土地の価格が上がらないなら売ろう→俺も売ろう→私も売ろう…→あれ?買う人誰もいないよ?(※買う側もこれ以上は上がらないと思っているのでわざわざ定価では買わない)→じゃあ買ってもらえるよう値下げして売ろう→俺も値下げしよう→私も値下げしよう…→あれ?値下げしても売れないよ?(※どんどん値下がりしているので、買う側はもっと値下がると思って手を出せない)」こうして売りが売りを呼んでどんどん価格が下がっていく、負のスパイラルへ突入するのでした。

そして困るのはゆるい審査基準で貸し出した銀行です。銀行からお金を借りた人は「どうせこれから土地が値上がりするから、今は無理して銀行からたくさん借りちゃおう!」と言って借りてしまっている人も多い状況でした。が、土地はもう値上がりが見込めず、また、景気後退に伴い給料も上がらなくなっていく中では、銀行へのローン返済が苦しくなっていきます。銀行は元々「もしお金が返せなくなれば値上がりした土地をもらってしまえばOK」と思って貸していましたが、その土地がどんどん値下がりしているので、お金を返してもらえなくなると完全に損をするのです。こうして発生した損を不良債権といいます。

こうして銀行側はお金を返してもらえなく、そして担保にしていた土地も売れずという状況でどんどん不良債権を抱えてしまったことで経営が破綻していきました。当初は体力が少ない中小の金融機関が倒産し、その中小金融機関に対して資金提供していた大きな金融機関にも影響が及び、1990年代後半には北海道拓殖銀行を初めとして、山一證券日本長期信用銀行日本債券信用銀行といった大手の金融機関が次々と破綻しました。

失われた30年

こうして日本におけるバブル経済が崩壊しました。想像以上に景気が冷え込んでしまったため、政府としても色々手を売ってもなかなか効果が出ず、ほとんど経済成長ができない状態が続きました。

景気が冷え込んで給料が上がらない、給料が上がらないため安くしないと買ってくれない、その結果物の値段が下がる分企業は儲けられない、そのため従業員の給料も上がらない、こういったデフレスパイラルが発生し、景気に停滞感が生まれました。

1990年~2000年の失われた10年、それが2010年、2020年まで引きずり、失われた30年と言われるまで不景気が続きました。もちろんこの間にも山谷はあり、一時的に景気回復もしましたが、そう思えばリーマンショックが来たり、東日本大震災が発生したりと、なかなかうまいこといきません。

なぜ30年もの間停滞したのかについてはその他いろいろな要因があるため、単純にこれだ!と言えるものではありませんが、いくつか例を挙げてみましょう。

少子高齢化社会の到来

高度経済成長期にはどんどん人口が増えていきましたが、出生率は実は少しずつ低下していました。人口を維持するには出生率が2.07必要と言われているのですが、1975年には1.91と2を下回っています。その分平均寿命も伸びているためすぐに人口が減ることはないにしろ、その内訳として少子高齢化が進むこととなりました。結果、バブル期を終えた日本は若者があふれる国から、徐々に中高年層の厚みが増す国、そして超高齢化に向かっていく国となっていきました。

そうすると労働人口が減っていくことになるため、物理的に経済を回していける人が減ってきたのです。その結果、政府がテコ入れしてもなかなか経済の活性化に繋がらなかったのです。

・設備投資より社内留保の経営

企業が大きく売上を伸ばしたり、新しい技術を開発したりするには、大規模に投資をしていく必要があります。例えば新しい機械を買ったり、有能な人材を多く採用したりといったことです。しかし、大規模に投資したにも関わらずコケてしまうと、大きな損失、下手するとそこから企業の倒産に繋がりかねません。景気が冷え込んだことで、リスクを取って投資するより、手元にお金を残しておいて、いざまたバブル崩壊のような事態がおきても大丈夫なようにする、といった慎重派企業が増えました。

もちろん、ある程度慎重になることは大事ですが、その慎重姿勢が行き過ぎてしまい、現状維持にとどまり、最先端の技術開発やイノベーションがしづらくなってしまいました。

・成熟社会に向けた産業構造の転換失敗

会社の倒産・廃業というとマイナスのイメージがついてしまいますが、長期的に見れば実は望ましいことだったりもします。というのも、時代の変化に追いついて、良い製品や良いサービスを生み出すことができる企業がどんどん成長し台頭していく中では、逆にそこに取り残されてしまった企業がどうしても出てきてしまうわけですが、このような取り残されてしまった企業が無くなり、雨後の竹の子のように新しい企業が出てくることで、新しい技術やサービスが生まれ、経済成長へとつながっていくことができます。

ところが、バブル崩壊後の各政策はこうした新陳代謝を促す政策ではなく、今にも潰れそうな会社を救うことが目的となっていました。確かにそれはそれで大事なのですが、本来取り残されて廃業したほうが良い会社まで救ってしまうことになってしまったのです。これにより、これからどんどん成長していくであろう新規企業を十分に育てることができない状態となっていました。

最後に

以上、バブル経済に関する流れを整理しました。最後は暗い話となってしまいましたが、ここ最近は日経平均株価が4万円を超えるなど、ようやっと失われた30年が終わり、景気回復の兆しが見えてきたところです。

どうやってこの失われた30年を脱出することができたのか、そして日経平均株価が高騰している今の日本経済はバブルのような状態なのか、これらについてはまた別の記事で書いていきたいと思います。