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太平洋戦争における日本の軌跡1 ~ノモンハン事件~

↑※AIに描かせたイメージイラストである。

自己研鑽の一環として『失敗の本質』を要約し、太平洋戦争(第二次世界大戦)においてターニングポイントとなった事象を記す。まずはノモンハン事件から取り上げる。

ノモンハン事件

概要

ノモンハン事件は日本とソ連による国境争いを発端とした戦いである。まだこのときはいわゆる太平洋戦争(第二次世界大戦)には突入する前であるが、太平洋戦争で日本が敗退する要因となる要素が読み取れる事件となっている。

※当戦争における呼称は立場や会社により、第二次世界大戦と言ったり、太平洋戦争と言ったり、アジア太平洋戦争と言ったり、大東亜戦争と言ったりとさまざまである。『失敗の本質』では記述が太平洋の島々に限った内容では無いため、「大東亜戦争」を採用しているが、ここでは大東亜戦争よりは一般的と思われる呼称である「太平洋戦争」で統一する。「第二次世界大戦」という言い方も一般的ではあるが、この場合はいわゆるナチスドイツを中心としたヨーロッパにおける各出来事も連想するため、あくまで日本に絞る意味で「太平洋戦争」とする。

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Christophe cagé - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30059287による

満州国では満州国とモンゴルの国境沿いにあるハルハ河を基準に西をモンゴル、東を満州国として国境を認識していたが、モンゴル側はハルハ河より数km東に食い込む形でモンゴルの領土としていた。
これにより、お互いの領土に入った入らないでモンゴルと満州国で発生した小競り合いが発展し、その親方国とも言えるべきソ連と日本との衝突へと発展していった。

最初の小競り合いは第一次ノモンハン事件と呼ばれ、大きく勝敗つかずという状況であったが、その後に準備を整えた上で発生した第二次ノモンハン事件は日本側の敗北であり、結局満州国が主張していた国境線は引けず、モンゴル側が主張する形での領土確定となった。

この事件における敗北要因としては、関東軍と日本側の大本営との意思疎通が適切に図られず、関東軍が自分たちの好きなように作戦を進めたことに起因する。日本側の大本営関東軍の動きに対してあまり干渉せず、あまりやりすぎないように適度に抑える程度の指令しか下せていなかったことで、関東軍が暴走し、結果自滅した形となったのである。

ノモンハン事件に至るまでの状況

日露戦争(1904年)が終結し、一応日本が辛勝という形となったことで、日本は朝鮮半島満州を手に収めることができた。朝鮮半島についてはこれをきっかけに日韓併合へと繋がっていく。

そして満州の地域(現在の遼寧省吉林省黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部)は日本の領土とすべくその統治に積極的に介入することとなった。この段階では直接的に日本の領土とはせず、"満州国"として国家を独立させ日本はその支援をした、という建付けで日本が介入するのである。

この満州国を統括していたのは「関東軍」(このエリアを当時関東と呼んでいた。いわゆる東京を中心とする関東のことではない。)であり、日本から派遣された組織であった。関東"軍"とは言うものの、軍事的な活動に留まらず満州国を政治的に操る形で政治にも介入していたのである。

満州エリアは中国・モンゴル・ロシア・朝鮮と囲まれた土地であり、また、当時のいざこざでは国境線が曖昧な状況であったため、度々周辺国との小競り合いを起こしていた。特にノモンハン事件の発端となるモンゴル・満州の国境線沿いは、遊牧地帯という特性上、かねてより明確な土地の分割意識が低い場所であった。

その中でソ連はモンゴルと条約を締結しており、モンゴルのバックアップにつける状況であった。そのため満州国とモンゴルとの国境線上のいざこざは、日本VSソ連のいざこざへと発展するおそれのある関係性であったのである。

第一次ノモンハン事件

関東軍が国境線上の防衛をするにあたり、「満ソ国境紛争処理要項」という指針がある。これはソ連軍が越境してきた場合には、兵力を集めて一時的にソ連側の国境に入ることになってでも敵軍を殲滅し必勝へと導く、という方針となっていた。

昭和14年(1939年)4月25日に関東軍はこれに基づいた作戦実行許可を中央部に報告したものの、これに対して中央部はYesもNoも言わないという曖昧な反応であった。これに対して、関東軍は当然作戦は容認されているものだと理解した。

その後、1939年5月11日、外モンゴル軍と満州軍での武力衝突が発生した。これを受けて、第二三師団長小松原中将はちょうど定めたばかりの指針である「満ソ国境紛争処理要項」に基づきただちにモンゴル軍の撃破への準備を進めた。合わせて関東軍司令部・参謀本部にも情報を連携した。

参謀本部:陸軍の司令をするトップ組織。ちなみに海軍の同組織は"軍令部"という。また、この後も度々出てくる"大本営"は天皇統帥権に基づきこれらを統括する日本軍のトップ組織である。

参謀本部としてはソ連側には事件拡大の意図が無いと判断し、「関東軍のほうでうまいことやっておいて」というスタンスで、特に明確な指示を出すには至らなかった。そのまま関東軍はハルハ河に向かって進撃を開始したものの、圧倒的なソ連軍からの砲撃を浴びて全滅。小松原師団長は撤収命令を出して第一次ノモンハン事件は終了した。

第二次ノモンハン事件

第一次ノモンハン事件をうけて、ソ連は危機感をいだき、国境線上の防衛をゴリゴリに強化を開始した。これに伴い、現場の小松原師団長としてはこれ以上ソ連が強化をする前に叩いてしまいたいという気持ちが高まってきた。

関東軍内でも、当時同時進行していた日中戦争への影響が出さないようにする慎重派と、初動で叩き潰したほうが良いと主張する積極派がいた。関東軍内部での話し合いの結果、積極派の意見が採用されて辻参謀を中心とした計画が進められる。

ただ、これが肥大化してしまうと日中戦争中の日本にとっては増援ができないため、大本営にて「ノモンハン国境事件処理要項」を作成した。これは、関東軍は敵に一撃を加えたあとは速やかに撤退するよう基本方針を整理したものである。が、結局これは関東軍には伝えられず、あくまで大本営の腹心にとどまることになってしまった。

また、関東軍としても戦闘を長引かせるつもりは無く、局所的に日本が戦力を集めて叩けば即終わるという見込みであることを大本営に伝えた。関東軍としても戦争が長引いたら日中戦争中では増援が期待できないことを認識しており、希望的観測としてソ連は大兵力までは用意しないであろうという見込みでもあったのである。

作戦

辻参謀が立てた計画では第7師団と戦車部隊をもって攻撃するというものであった。第一次ノモンハン事件では小松原師団長がいた第23師団を主力としていたが、それまで十分な訓練を積めず防寒対策ばかりしていたため、本計画を実行するには兵力が不十分であった。なのだが、植田関東軍司令官としては、「それまで主戦場で戦ってきた第23師団を引っ下げて、他の師団に対応させてしまうのでは小松原師団長のプライドに傷がつく。数字で判断するのではなく、人間味あふれるものでなければならない。」という反対意見を出し、それが通ってしまったことで、実力不足の第23師団を主力とすることになってしまった。

このような作戦については、特に大本営に伝えることもなく関東軍にて推進をした。作戦参謀課としては、これは関東軍における本来の任務であるという建付けと、中央に伝えて拒否されてしまっては機を逃してしまうため、すみやかに作戦実行すべきと考えたためである。一応、関東軍から大本営へのある程度の報告はしていたものの、ここに至っても大本営は「そっちのエリアのことをよく知っている関東軍のほうでうまいことやっておいて」というスタンスであった。

タムスク爆撃

そして飛行集団による爆撃(タムスク爆撃)を実施。大本営からは航空機を使うレベルでの越境爆撃については絶対反対の立場であったため、関東軍にて秘密裏で進めていった。大本営にこの情報が伝わると、これを機に事件が拡大化するおそれがあるので自発的中止を関東軍に対して求めたものの関東軍は暴走。これにより、大本営としては関東軍から裏切られたと感じ、関東軍からすれば本部は現場を汲み取ってくれないと感じ、感情的対立を引き起こすこととなった。

これを受け中央部からは関東軍の行動を制限するために指示(大陸命第320号)を与え、これ以上波及しないように努めた。具体的には、関東軍が行動をするに当たっては中央部と協議や認可のもと行うという趣旨である。それでも関東軍は中央部を無視し、当初の方針を変えずにわが道を進んでいた

ソ連との戦力差異

しかし、相手ソ連第一次世界大戦を経て軍事力を大幅に強化していた。質量共に優勢な機甲部隊や航空部隊により関東軍を反撃していった。一般的に砲兵戦においては相手を圧倒するだけの火砲と大量の弾薬が必要で、目標に対して十分な探索が必要である。これにおいて日本にはそれだけの物力がなく、火砲自体の性能も劣っており、行き当たりばったりで事前な探索ができていないという状況であった。日本は第一次世界大戦において本格的近代戦の体験をしていないため、こういった物量の差異や近代戦の対応が遅れていたのである。

この戦力差により徐々に関東軍は損害を重ねていき、苦戦を強いられることになった。5月に始まった第一次ノモンハン事件から2ヶ月経ち、7月下旬にさしかかって泥沼化していく中でも、関東軍は作戦終結は考えずに、増援部隊を派遣して戦闘を継続する意思であった。大本営としては泥沼化を終わらせるために作戦終結の意思があったものの、関東軍からは「数千もの将兵が血を流した土地を捨てて撤退することは統帥上なしえない」として、撤退を断固拒否したのである。そのため、これ以上むやみに関東軍を刺激してしまわないよう、大本営としては使用兵力を減らすように指示するなど、明確な中止命令をしないでよしなに済まそうとしてしまった。当然、関東軍としては作戦中止とは受け取らなかった。

その後、参謀本部から中島参謀次長が直接関東軍に派遣されて中止命令を伝えようとしたものの、関東軍の激しい攻勢意図に同化してしまい、中止の意図を伝えることができなかった。つまり、ミイラ取りがミイラになってしまったのである。

これを機に改めて本当の本当に明確な中止命令を大本営から関東軍司令官に対して命じた。関東軍は戦死者収容のために限定的な作戦実行を求めたが、これを中央部は拒否。9月6日、これによってようやっとノモンハン事件が終了した。

ソ連軍の攻勢の結果、多くの日本軍の隊員が戦死したのはもとより、先頭の最終段階にてその責任を取る形で連隊長クラスが自決をした。日本軍は生き残ることは臆病であるとみなし、自決を強要することで、反省を活かす機会を失ってしまったのである。

失敗の本質(個人的な所感)

1.中央部からの統制力不足と関東軍の暴走

満州国の運営および治安維持は関東軍に委任されていた。間接統治という意味ではそれでも問題ないであろうが、指揮命令系統や大方針が曖昧であることで混乱を生じてしまった。現場のことをよくわかっている関東軍に対して、中央部は物理的に離れているがゆえに現場の状況把握は困難であり、ある程度関東軍に任せないといけない。

ただし、日中戦争や各種外交との全体最適を鑑みてどこまで関東軍にやらせるべきか、権限委譲の範囲が不透明であったことで、関東軍の暴走に対して、中央部としてもどこまでNGを出せば良いかが曖昧となり、結果、現場は現場に任せるといった悪い意味での現場主義に陥ってしまったであろう。

そしていざ戦闘が始まってしまうと、当然死者が出たりして取り返しがつかなくなってくる。ここで撤退命令を出しても、イケイケで気性の荒い関東軍からすれば、「戦死した仲間が報われない!」と感情的になってしまい、ますます中央部の命令が蔑ろにされてしまう状況となってしまった。

個人的な所感

ではこの状況に陥らないようにするにはどうするべきであったのか?

1つは中央部からの関与を高めることであろう。間接統治で任せっきりにしたことで、良い意味では独立して運営できるようになるが、その一方で中央部からの言う事を効かない暴走しやすい体質へと組織が変わっていくと考えられる。定期的に中央部から人材を派遣する、関東軍の人事権に強く介入する、といったことで中央部からの風通しを良くしていく必要があったと考えられる。

これは一般的な会社組織においても同様であろう。例えば企業買収においては、買収した後に存続会社側から役員などを送り込んで、子会社とのパイプを繋げておき、買収による業務や統制の統合を円滑化する。これはマキャベリ君主論においても同等のことが述べられており、遠方地を獲得した領主は直接そこで指揮を取るよう記されている。

もう1つは間接統治で大きく権限を移譲するにあたってクライテリアを設けることであろう。つまり、ここまでやったらNGとか、これをやるときは中央部の承認を必ず得るようにする、といった基準をあらかじめ設けてそれを確実に運用することである。超えてはいけないラインの設定と、超える場合の運営をルール化することで暴走を防ぎ、最悪の事態を逃れるのである。

2.近代戦を前提とした軍事演習や分析の不足

1904年の日露戦争の後、ソ連第一次世界大戦にて当時の先進国であった各ヨーロッパの国々相手に戦争をしてきた。他方で日本はその間、ヨーロッパの統治が手薄になった中国をかすめ取る形で参戦し、本格的な近代戦の経験を積まずに漁夫の利を得てきたのであった。1904年の日露戦争以降、日本では欧米諸国を相手とする戦争は起こしておらず、もっぱら満州国を始めとした中国や朝鮮半島の統治に従事しており、30年ほど本格的な戦争というのは経験してない。つまり、戦争に対する情報が日露戦争以後ほぼアップデートされていないのである。

また、関東軍は"軍"と名がつくものの、実態としては満州国の政治的な統治をしており、軍事の専門組織というわけではなかった。軍事演習においても対ソ連を想定したものになっておらず、精神論がまかり通っており、「全く勝ち目が無くても日本軍のみが持つとされた精神力と統帥指揮能力により勝利を得る」という神がかり的な指導で終わることが常であった。(これは第二次世界大戦における今後の戦況でもそうである。)

このため、数値的な根拠による作戦の立案が曖昧化してしまった。きちんとソ連軍の兵力を見極めず先攻攻撃をしかければすぐ終わるであろうとタカを括ったり、第7師団を主力にしようとしても、感情論が優先して実力不足の第23師団を主力としてしまったりといった具合である。

個人的な所感

数値的な検証をせず精神論で押し通すという姿勢は、旧態依然とした体質をもつ会社組織でも根強く残っているであろう。さすがに今はマシになっていると思うが、かつて聞いた話として体育会系で有名な某銀行の営業においては、数字が未達だった社員はとにかく大声で「頑張ります!絶対やります!」というのを叫ばせる。数値が達成できると考える根拠は何なのか、そもそも数値目標の設定は妥当なのか、といったことを本来は考えて適切な対応を検討すべきであろうが、今まで良くも悪くもそれでなんとかなってしまい、そして組織が硬直化すると、そういった考えに至れないのかもしれない。日本軍においても、日清戦争日露戦争でなまじっかうまくいっていたことで、こういった思考に至れなかったのかもしれない。

3.戦争目的の曖昧化

そもそもであるがこのノモンハン事件における目的は何だったのであろうか?第二次世界大戦においては常にこの問題がつきまとう。当然、むやみな人殺しは誰だってやりたくないわけで、戦争を引き起こす以上、そこには目的が存在するはずである。のだが、これが曖昧になると、どこまでやりきるべきか、どこで撤退するべきか、という利確・損切りラインが不明瞭となる。

孫子の兵法においては「百戦百勝は善の善なる者に非ず」という言葉がある。直訳すると、「100回戦って100回勝つことは別に良いことではない」。つまり、そもそも戦うことを選択した時点で一定の損害が発生してしまうのだから、戦わずに勝つことが最も理想である、ということである。

ではここでいう"勝つ"とは何なのか、それは外交的な目的の達成である。つまり、相手の領土がほしい、有利な貿易をしたい、人質を返してほしい、といったものである。これらが達成できるのであれば、わざわざ戦争を引き起こす必要は無いのである。

今回のノモンハン事件においては、国境の領土争いであった。ハルハ河を基準にどこまでを満州国とするか、どこまでをモンゴルとするか、これが曖昧であり、日本側とモンゴル側でいがみ合っていたわけである。これを戦争せずに領土を確定するのは現実的に難しいであろうが、ここまで領土を押さえれば終わりとする、逆にここを取られたら撤退する、といった目的と照らし合わせた利確・損切りラインを決定する必要はあったであろう。これをしなかったことで、「ここの領土取られたけど、戦死した仲間に申し訳ない」といった余計な感情が入って戦争が泥沼化していったのである。

 

次回はミッドウェー海戦について記載する。以下参照。

s-tkmt.hatenablog.com